音楽だと、ポップスはメロとコード(3和音)が最初にあって、それ以外は肉付けに過ぎない。
しかし、メロとコードは音楽理論の1部であり、まず教会旋法という単旋律が7種類。その7種類のメロを2個以上組み合わせる対位法。そこに3つ目の要素である根音を追加して、結果的に和音(和声)になる。
しかし、コード(和音)しか学んでいない人間には、長調と短調が基準で幅が狭い単旋律と、そこに後付けするコード(和音)しかなく、常に交錯する2個以上の旋律的音楽、コード(和音)が前提とする3和音未満の和音数で作る能力に乏しい。
ファミコン音楽は、ゲーム機自体が4和音しか出せず、効果音で1枠を使うので、音楽は最大で3和音しか使用を出来ない。つまり、コードは使えない。その時点でメロに使える音がなくなってしまう。そこで、メロと根音の間の単音でどれだけ厚みと派手さを維持するのか苦心した結果、ただ結果的に対位法を駆使する事になった。当人達も好きでやっていたわけではない。やらざるを得ないからやっていたに過ぎない。しかし、それは結果的に、メロと根音の2和音とギターとピアノの和である12和音の総和14和音を使うよりも、素因数分解した代替不能な素数で作るようなもので、贅肉や装飾を削ぎ落とした本質だけで作編曲をしている事になる。
そこから肉付けで和音や楽器編成を増やす事は出来てても、ギターとピアノの和音数が前提の人間に逆は作れない。クラシック音楽は結果的に50人から100人規模の管弦楽を作るが、最初に学ぶは4声での作曲法である。それが〈弦4声、金管4声、木管4声〉と増やしていき、結果的に50人以上の合奏になる。しかし、根本は4和音以下という原理が働いている。
ゲームの最適化も同じ話だなと思った。最初に無限の数を使えると、素数だけで何かしろと言われても出来ない。しかし、素数だけで計算をしてきた人間は、選択肢が増えるだけで困らない所か出来る事が増えるだけ。
だから、どんな分野の玄人も基礎を重視する。基礎を無くして応用はない。画質や処理速度の基準を最高機種にすると、本当に不要な情報を判断する能力は衰える。まず素因数分解して代替不能な素数を求めて、その素数で何を出来るから考える。
最新機種の技術や処理能力に溺れると、これが出来なくなる。

