自分は〈上原ひろみ〉を極めて退屈な音楽だと判断している。彼女が評価されているのは右手の忙しさであり、彼女もそれに甘んじて、左の仕事がおろそか。右手の裏で左手がこんな事をしている、という驚きがない。そして、顔の表情に反比例して実音の強弱表情が乏しい。
対して、ビル・エヴァンスに派手さはない。基本的にフォルテ以上の音は少なく地味。しかし、右手同様に左手も忙しい。
自分は、ここまで具体的に分析したわけではないが、右手のメロ以外にも耳を傾ければ明らか。
下の画像は、上原ひろみとビル・エヴァンスの演奏を抽象して女の画像に比喩したもの。
上は上原ひろみ。下がビル・エヴァンス。


上原ひろみは見るべき所が一点しかない。美女の顔だけ。それ以外は副次的な装飾に過ぎない。
ビル・エヴァンスは、見るべき点が多い。美女を中心に見るが、服装や背景も等しく示される。
両者は優劣の関係ではないが、情報量の大小差はある。前者が小さく、後者は大きい。これは、上原ひろみが基本的に主役と脇役という区切りが明確なホモフォニー中心のピアニストであり、ビル・エヴァンスが主役との掛け合いや対比によって主役以外も浮き彫りにするポリフォニー的なピアニストだからである。
ここで問題なのは、ポリフォニーを根拠にホモフォニーを作る事は出来ても、ホモフォニーを根拠にポリフォニーを作れないという事。
自分が和声(コード)のホモフォニーよりも、ポリフォニーである対位法を重視する理由はそこにある。ホモフォニーの伴奏は和音(コード)という単位から逃げられないが、ホモフォニーは3声の旋律の組み合わせで和音(コード)を構築しながら和音(コード)に縛られない音楽が可能。
つまり、ポリフォニー(対位法)は上位互換なので、ホモフォニー中心だと退屈に聞こえる。逆に、上原ひろみがここまで受けた理由は、構造がポップスと同じで焦点を合わせる被写体が1つしかなく消費者が認知する難易度が低いから。
かと言って難易度が高ければ面白いかと言えば、そういう問題でもない。メロディの価値をx軸、メロディ以外の価値をy軸、難易度をz軸として、この立方体の中の座標のどこに位置するかを把握するのが肝要なのだが、音楽をx軸だけで聞いてませんか、という疑問と指摘である。