70年前の東大入試で出された数学の問題が「簡単で舐めすぎ」という声に「現代のゾルトラークってやつでは?」というツッコミ - Togetter
これを読んで思ったこと。どんな分野も次世代が有利。特に知識が絡む事は、旧世代が四苦八苦して開発した事を、次世代の子供は常識として無意識に学ぶので、基本的には加算される一方だから旧世代は次世代に勝てない。
音楽も基本的には次世代の方が知識が豊富なので音楽の幅が広くなる。しかし、和声(コード)を学ぶ人は多くいるが、対位法を学ぶ人は少なく、むしろフリーレンが魔族を欺くために隠している秘技みたいになっていないだろうか?
自分は決してクラシックの人間ではないが、ファミコン音楽に慣れ親しんできた世代なので、対位法的な音楽を普通のものとして聞いてきた。というのも、ファミコン音楽は3和音しか使えずホモフォニーが難しい。メロ、ベースを作ったら、もう和音の伴奏を作れない。必然的にアルペジオとハモと対声の3役をこなす事になる。
対位法は和声法よりも古い。基本的には同時並行的に発展しているものだが、音楽はまず単旋律があり、2人以上でやるためにユニゾンとハモが生まれ、同時に動く和声法と異なる動きを重ねる対位法に分離したが、和声が3和音以上を常識としたのに対して、対位法は2声を基本とする。和声よりも少ないリソースで作れるのが対位法なので、10進法の和声に対する2進法が対位法と言えるかも知れない。そう考えると、益々《対位法》が扱われない理由もわかる。例えば128や256や512や1024や2048を切りの良い数字と思う人は少数派だろう。
今時の音楽はコード進行は凝っているし、コードに準じた転調も凝っている。しかし、それなのに退屈だと自分は感じる。理由は複数あるが、その内の1つに《対旋律》が無いから、という事がある。
対旋律とは、主旋律(メロディ)に対して、異なる副次的なメロディを重ねる事。以下《きらきら星》で例を作った。前半4小節が和声(ホモフォニー)、後半4小節が対声(ポリフォニー)。厳密にはクラシック基準の純粋なポリフォニーではないが、広義の対位法として捉えて欲しい。
どうだろうか。前半は厚みがあるが単調、後半は薄いかも知れないが活発で複雑に感じないだろうか? 複雑だから正解だと言う事は音楽には無い。とは言え、単調でも退屈で聞くのが苦痛。その合間を縫うのに、対位法という考えは非常に役に立つし、少なくとも自分は必須だと思うのだが、世間は主旋律だけ聞いて、場合によっては歌詞の言葉に感動するが、裏で動いてる対声なんぞ聞いてもいない。
こう言ってはなんだが、対旋律の無い音楽は頭を使わずに気軽に聞ける。せいぜいリズムに乗ってメロディだけ聞いていればいい気になれる。しかし、対旋律がある曲は、そこに更に1要素追加される。言うなれば、自分の目の前に2人の友人がいて、友人Aと友人Bが同時に話しかけてくるのを自分1人で聞いて両方に受け答えしなければならない、そんな感じ。でも実は2人とも同じ話題を話しているのだと気づくと、途端に面白くなる。ある映画を面白かった友人Aとつまらなかった友人Bが感想を同時に話して、映画の是非を同時に知られるという感じだろうか。
自分がYoutubeで1億再生されてる評判の音楽を聞いて退屈だなと感じる理由の大きな1つは対旋律が無いから。使われるコードやコード進行は複雑化しているが、対旋律は中々採用されない。それは何故か? 答えは単純で、難しいから。楽器を弾けると和声は感覚的にわかる。自分がメロディを歌いながらギターかピアノで和音の伴奏を弾けば立派なコード音楽になる。メロ=1、コード=2、と2つの要素を処理すれば済む。しかし、対位法はそうはいかない。メロ、コード、に加えて第3の存在として現れる。しかも、声はメロ、両手はコードで手一杯で第3の音を鳴らす手段が無い。メロを歌いコードを弾きながら頭の中でどちらとも違うメロを再生しなければならない。だから、ポップス系の人達はコードばかりに走るし、そもそも対位法を知らないまである。
対位法が和声法よりも優れているという話では無い。選択肢が無いのが幼稚で退屈だと言う話。例えば、映画や漫画で主人公は1人で良いが、主人公を愛するヒロインだけ居ても退屈だろう。主人公と対立するライヴァルA、しかし、ライヴァルAはヒロインとは仲が良い。ヒロインと対立するライヴァルB、しかし、ライヴァルBは主人公とは仲が良い。こういう平行する対立と合致が絡み合い初めて物語が盛り上がるように、音楽もただメロとコードだけでは合致を推進するための対立が無くて退屈に感じてしまう。
別にバッハこそ至高なんて話では無くて、メロとコードだけじゃなくて、第3の選択肢を持った方が豊かになるよ、と言う話。
