女の本性と男の欲望

  
 JKハルは異世界で娼婦になった 7巻(完)【電子特典付き】 (バンチコミックス)科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌 1 (チャンピオンREDコミックス)を読んで思った事。女はどこまで行っても焦点が自分にしか合わない。

 女という性別と娼婦の不遇を嘆いて男を責める割に、生物や法律の範囲にまで発想が及ばない。悪いのは自分に性欲を抱く男、自分を守らない男。自分から気持ち悪いと評価して見限った男を、強姦されている場面で助けてくれたら見直してやる、などとダブスタに何の疑問も抱いていない浅ましい女の本性を、肯定的な女の本音として描いている。

 対して科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌 1 (チャンピオンREDコミックス)は手当たり次第〈亜人〉とセックスするという欲望を丸出しながら、蜘蛛の性質を持つ人種の場合、馬の性質を持つ人種の場合、魚の性質を持つ人種の場合、と生物と社会規範がそれぞれ異なる事に言及して、それぞれに相応しい道具と態度で対策する。そこには、法律や文化や武器というあらゆる要素の中にセックスがあるに過ぎない。

 女の作家の致命的な欠陥は、自身の幸福にしか興味がない事。自分が存在しない世界の方が良い場合がある、なんて事を考えない。自分が存在しなくても成り立つ仕組みを作れば、その壱部は自分の恩恵にもなる、という発想がない。目の前の人間関係しかなく、自分が生まれる前と死んだ後の時代のために生きる事が出来ない。少なくとも、そういう発想で創作と描写を出来ない。

 両作はどちらも男女それぞれ直球の欲望を描いたものだが、いずれも愚行であるのに前者の女の作品が露悪に終わり、後者の男の作品に恩恵があるのは、個人に執着していないから。言うなれば、勇者が魔王を倒すことは、普段から殺人や強姦をしている犯罪者を間接的に守ることでもあるし、何なら勇者を憎むものを守る事にもなる。しかし、それでも魔王を倒す人生を送るから英雄なのであって、動機は無意味。

 対して、前者の女による女のための作品は、どこまで行っても〈私の幸せ〉しか頭にない。女と娼婦が不遇なら、その不遇の女を集めて協力と統率をして法律と文化を作れば良いのに、そういう発想と行動はない。どこまで行っても、あるのは男の利用価値と不満だけで、男の存在に依存しない自立という発想に欠ける。目前の人間との協力関係は築けても、自分と関わりがない人間にまで影響が及ぶ要素をどう活用するか、という能力が皆無。

 女の作家に必要なのは、女の本音を描くことではなく、性別を問わずに、自身の優遇も求めずに、自己認識が間違っているという自己批判と、自身に無関係な存在や概念にまで思考が及んでいるか、という事を自覚して改善する事ではなかろうか。自身を必要条件の定数として扱い、いつでも代替可能な変数として認識を出来ないうちは、いつまで経っても女同士の内輪で完結して、世界を塗り替える価値など提示が出来ない。