陰謀論者と抽象的理解


 陰謀論にはまる人は、何らかの理由で社会的な損害や孤立や嫌悪を抱き、それを補強するために陰謀論を選ぶ、という事らしい。

 自分がこの主張を聞いて真っ先に思い出したのはなぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか (ハヤカワ文庫 NF 313)である。何らかの特殊な体験をして、それをエイリアンに誘拐された、と主張する人を調査した本だが、学歴が高く科学的な認知も常識的な人間ですら、宇宙人に誘拐された、という状態に陥る、という事を示していた。

 陰謀論者は、新興宗教にはまる人間と同様に、自分を助けてくれなかった社会に対する反発として陰謀論を選択し、陰謀論者同士の関係に安寧を得ている……この指摘を正しいとして、自分には利点を見出せなかった。小説家〈森博嗣〉は読書の価値 (NHK出版新書)で本を読む理由は「自分の考えや価値観を覆し塗り替えてくれる事を求めている」と書いており、自分は全く同意するからだ。

 以下に2枚の絵がある。それぞれが漫画の1コマだが、左は、女が触手に尻穴と膣を責められるエロ漫画であり、右は、男が巨大な剣を構え怪物に立ち向かう場面である。

〈寄性獣医・鈴音〉〈春輝〉|〈ベルセルク〉〈三浦建太郎

 これは、男なら左をエロとして喜び、女は男の欲望を丸出しで嫌悪するだろうか。右は、男女ともに楽しめる要素があるが、グロや戦闘に興味のない女は男の馬鹿な要素と判断するだろうか。

 しかし、自分にとって、この左右の絵は同じ絵である。無論、具体的には、触手を利用した擬似セックスのポルノと、勇者が魔王に挑む逸話は全く異なる。

 だが、抽象的には、両者の絵は、手前から奥に激しく運動する構図であり、生死や幸福など生命と価値観を決する意味も含まれる。

 Z軸の運動で読者を感動させようとする意図で成り立っている絵、という意味で、両者は全く同じである。

 しかし、恐らく、大半の男女は、左のセックスに過剰反応して、右と同じ絵だと評価しないだろう。自分には、陰謀論者も、原理を説明が出来るほど理解をしていない常識論者も、具体的な要素に固執して、抽象的に共通または差異がある事を理解していない人種に見える。

 何らかの理由で陰謀論を見出し、それにはまるのは、まだわかる。しかし、情報とは常に更新されてるものであり、人類は生きている間の情報では不足だからと文字を発明して、記録を何世代にも渡り保存する事を決めた。その情報の内容と、情報を知る自分の人生や人格や能力は本来は無関係であるのに、それを接着して同一視する愚行を、自分は理解が出来ない。

 自分は音楽におけるポップスをあまり聞かない。退屈だから。

 では、なぜ退屈なのかと言えば、歌手は自分の声を唯一無二の個性や武器として音楽をやる。

 しかし、自分のように編曲を中心とした音楽理論など知識や実践を重視する人間からすると、歌手とはピアノやギターやドラムやベースやヴァイオリンやオーボエのように、選択と置換が可能な楽器の1つに過ぎず、歌手の声が使えないなら、代わりにフレンチホルンにしよう、など代替案は幾らでも出てくる。

 そして、今のポップスは良くも悪くも歌手が作曲や、下手したら編曲を担うこともあり、自身の歌声を大前提とした、幅の狭い音楽となる。歌手は自分が存在せずとも成り立つ音楽を想定が出来ない。歌詞も歌手もない音楽を歌手は作れない。だから、自分は退屈でポップスを聞かない。知識や技術を自身の個性と接着すると、こういう弊害が起きる。

 自分にとって知識や技術は、精度を問わなければ誰でも使えるものであり、そこには人種も性別も世代も問わない普遍性があるからこそ素晴らしいものであると認識している。それなのに、わざわざ自分という個体と接着して代替不能なものにする、というのは実に愚かとしか言いようがない。

 金持ちのイケメンに愛される描写はしても、どうすれば独力で金持ちになれるのか、その職業や経済や法律など構造には興味がなく、とにかく自分が愛される事にしか頭にない稚拙な少女漫画のように見える。

 面白いのは、動画の中で、陰謀論者同士のセックスが容易に実現しやすい、という指摘。ホストに狂う女と同じではなかろうか。結局の所、そういう人間関係に固執して自分は悪くない、という無根拠な自己肯定に甘んじてる人間が多数派である以上、陰謀論は無くならないし、説明を出来ない常識人も同等だと思われる。

 情報には、正誤の2択と、現時点で証明が不可能な保留を含めた3択があるだけで、それを運用するだけに過ぎないのに、対象を選ばず宗教にしてしまう人間が壱定数いて、それは理屈を理解せずに甘んじている常識人も、いつだって陰謀論に転ぶ予備軍に過ぎない事を示している。