先日、30年前にお世話になった知人と再会して、その人は子供はおろか、成人した孫までいるというので会わせて貰った。その孫と《好きな音楽は何か》という他愛無い話をした。その時に孫である彼女は歌詞や旋律や転調を含む歌手の歌声の魅力について雄弁であった。しかし、ある違和感があった。それは伴奏に全く言及されなかった事。音楽のどこを好きでどう聞くかは自由なので伴奏に言及しないのはまだわかるが、以下のような曲を例示して解説しても音を認知していなかった。
- イントロは4拍子(8/8拍子)だが00:15で6/8拍子に変化している。
- 00:52のサビで《街に花が満ちて》と歌っている歌詞に会わせて花が咲く音を抽象化誇張表現したカーンという音がある。
- 02:07の2回目のサビ《鞄には海が1つ》と歌い終わった後に波打ち際の音が聞こえる。
- 02:17では《イルカと森で遊ぼう》と歌うとイルカの声が聞こえる。
- 02:32では《ピアノは空を飛び》に会わせてピアノがグリッサンドしている。
- 03:47では、これまで《ソーーラーーソーー》と動いていたVnが《ミーーレーーラーーソーー》と異なる動きを見せている。かつ、これまでサビに無かった歌手のダビングコーラスが加わり《ソ》を《Uhーーー》と歌って厚みを増している。
大概の歌ものは大サビで変化がある場合もあるが、基本的に1番/2番/大サビの伴奏が楽譜上コピペされる事が多い中、こういう曲は毎回違う仕掛けを用意していて編曲が凝っているから感動した、という話をしても彼女はキョトンとしていた。
例えば、ある曲をピアノ1本の伴奏で歌い、ある時には同じ曲をギター1本で歌うという違いには遭遇しているし認知しているが、それが編曲という概念に従う行動とは理解をしていなかった。
編曲とは
編曲とは、ある主旋律(メロディ)に対して伴奏に使用する楽器編成を管理/指定して具体的な演奏のために音符まで考える(楽譜にする)立場/役割である。
以下の曲は《韃靼人の踊り》と言うクラシックの曲である。
同じ旋律(メロディ)の伴奏を全く異なる編曲をしたのが以下である。
以下は原曲が上の動画で、異なる編曲が下の動画である。前者は短調だが後者は長調な上にメロディラインやリズムにも手が加えられているが、これも編曲の範疇に含まれる。
以下の曲は、前者がロック色が強い原曲。後者がクラシック調に編曲された管弦楽。
以下はアップテンポな歌の原曲を、スロウテンポの管弦楽に編曲した例である。
ジャズという同じ枠組みの中で異なる編曲の例。
The Parting Glassというアイルランドの民謡の編曲違い。
同じ曲を同じ人間が異なる編曲をした例。メロディが聞こえるまで同じ曲とはわからない。
原曲である管弦楽をポップスに編曲した例。
最後にこれ。この曲は歌詞と作曲と歌手が同じで、編曲だけが異なるパターン。
以上の例示を聞いて貰えばわかるが、そもそも音楽の雰囲気や出来の9割は編曲で決まる。少なくとも作詞、作曲、編曲という対比ならば。むしろ旋律(メロディ/作曲)は添え物に過ぎない。しかし、音楽の消費者の大半は編曲や編曲者を認知していない。音楽に興味が無いなら全く構わないが、音楽を好きな人間ですら認知していない場合がよくある。
例えば、ゲームや映画の音楽を聞く人は、編曲という概念はよく馴染んでいる。同じ旋律で異なる雰囲気を出そうと頑張る分野だからだ。例えば、以下の5曲は全て同じ人が作曲と編曲をした同じ曲である。
速かったり遅かったり、明るかったり暗かったり、1つのメロディをここまで広げる事が出来る。これが編曲である。
編曲が認知されない理由に、レコード会社やメディアの責任もある。例えば、Youtubeで3億再生されているバケモノ《Mrs Green Apple》の《インフェルノ》のWikiを見ると、作詞者と作曲者の名前は明記されてるが、編曲者の項目が無い。
インフェルノ (Mrs. GREEN APPLEの曲) - Wikipedia
壱応、本文の方で編曲者が書かれているが、概要だけ読んで本文を読まない人の方が多いだろうから、認知されにくい。

極論を言うと、作曲と作詞は誰でも出来る。出来/不出来を考慮しなければ、そこらの幼稚園児にも可能。しかし、編曲はそうはいかない。楽譜や音楽理論や楽器など色んな知識が必要で専門的である。音楽に興味が無いなら全く無視して良い要素だが、音楽を好き、好きな音楽があるなら、是非とも編曲に着目して音楽を聞いて欲しい。