漫画版【JKハルは異世界で娼婦になった】を読んだ感想

 女が自分の利益の最大化だけを求めて逞しく生きると、支離滅裂で、自分が関わらない分野の知識には全く無知で、分野や種の発展には何も寄与しない、という事が思考実験で明らかになった、という感じ。個人の扱う範囲は広いけど、価値観の幅が無い。

 中世ヨーロッパの文明なのにシャワーがあり、シャワーがあるのに蒸気機関がなかったり、ギターのBmを弾けるという台詞があるのに記述されてる楽譜はBのパワーコードだったり、男を自分で追い出しておきながら、その男が自分を守らない事を批判した後に、こんなやつに守られなくても私は最初から1人で生きている、という矛盾に無自覚だし、女が愛し愛される事しか頭になくて、自分以外の立場や役割や社会構造を、批判しながら無理解な事が明らか。女である以前に無知で受動的である事に問題があるのに、それを性差に歪めて、女のダブスタを肯定して男のダブスタを否定しているから、作者も作品も稚拙。

 男がヒロインを性奴隷に扱う事を拒否するのは正しい。しかし、他の女を、男に性格を開発されれば良い女になるのに、と男の基準に合わせる事を至上とした価値観を容認してるダブスタを作者が無自覚だから、結果的に女を肯定するほど、女には自分の目の前の1にしか焦点が合わず、1以外の数字があるなんて発想がない事を作者と作品は証明してしまっている。

 同じ男が相手でも、女のセックスには義務と愛情と無関心がある、という価値観を描いているのは良いが、逆にいうと、その主観しか頭になくて、インフラや経済や文化に対する理解も貢献も全く出来ないのが女であると暗に示してしまっている。

 作品が男尊女卑を描いているのは確かだが、その極端な男尊女卑を、現在の私達と同じだ、という1点だけを肯定している、フェミニズムの欠点と同じ問題が明らかになってるだけで、女には社会性はあるが、社会制度には無関心という浅ましさを無自覚に肯定して認めてしまってる。

 男が男を肯定すると、女はみな景品になるというのは事実。だが、その景品を得るために魔王を倒したり金を稼いだりインフラを整備するという世界全体に恩恵を与える英雄になる。

 女が女を肯定すると、全ては私のためになることだけを肯定するので、あらゆる男が自分に向かってきて、それを肯定か否定するだけで、自分以外の女や、自分が属さない分野に金や時間を使った方が自分の利益は落ちるが全体としては潤う、という発想が全く無い。自分で惚れた相手にすら妊娠は拒否するという、トレードオフが全く成り立っていない。

 当然ながら、男尊女卑が正しいわけではない。しかし、なぜ男尊女卑が成り立ってしまうのか、という人類史的な恩恵に全く焦点を合わせられずに被害者面だけしてるのが、実に女。

 自分に言いよる男だけが良い男で、自分に金を使う男だけが良い男で、散々それに便乗しながら、いつでも自分はそれらを拒否と批判が出来てそれが正しい、という、むしろ娼婦という職業が如何に馬鹿な女で成り立ってるかという証明を、女が女を肯定することで無自覚に認めてしまってる事に作者が気づいていない。

 せいぜい悲劇のヒロインを疑似体験が出来て、男への不満をぶち撒けられればそれで良い程度のポルノに過ぎなかった。

 女が自立的であるほど、女は受動的で主体性が無く女という性以外に無知になる、という欠陥を認めてしまっている作品だと作者は気づいてない。

 逆に言うと、女にとって現実なんて、自分が強姦されるかされないかしか頭にない、と描いているだけなので、そもそも男をどう扱うか、という事にしか焦点があってない時点で好意も悪意も男に依存しているという事に無自覚で、女って馬鹿なんだ、と女自身が無自覚に肯定してしまっている。

 男ってこんな酷いんだよ、という主張は別に構わないが、その男に便乗するしかない自分の根本的な原因には全く触れてないし改善しないから、男の物語にお約束の、そもそも勇者が魔族にとって悪だったのでは、という自問自答や自己批判が女には欠けている。

 結局、女が興味あるのは女の本音であって、それを全肯定すると、社会性はあるが社会に寄与しないという支離滅裂な女の限界が明らかになるのだが、女がそれに無自覚で、そういう要素を全く考慮せずに増長するから、自分の胸を見ている男には100%気づくと言う、自分が気づいてる時の男しかカウントしてない、という前提の誤認を女が自分で是正出来ない。

 自分から見ると、女の作品の課題は、自分が愛し愛される事からの脱却なのだが、どれだけ時代の価値観が変わり女の自立や主体性を描こうと、まず自己肯定から始まる時点で、いつまで経っても女の作品は女らしいを売るしか無く、故に定期的にリサイクル商品として代表作は生まれても、いつまで経っても自己愛しか頭に無いから、自ずと女を売るしかなくなる。

 男の作品は、無根拠に美少女に好かれるという頭の悪い作品がある一方で、自分の願望とは別に世界を守らなければならないという英雄的義務感を提示する作品も定期的に出てくるので、魔王を倒すと、自分が嫌いな奴も含めて助ける事になるけど、そんな事を考えもしない無自覚な平等主義が働いていて、男は誰かに好かれるためにやるのではなく、自己満足でやってる事が世界平和や種全体の利益になるという、女は社会性があるからこそ社会に寄与が出来ず、男は非社会的である事が社会を救うという、皮肉な様式がお互いに出来ている。

 だから少年漫画は老若男女に売れるが、少女漫画は一部の読者にしか売れない。少女漫画を読む主な女は、大人の男に好かれる事を一種のステータスにするけど、それが読者がある年齢に達すると、小学生を好きになる教師というありえない関係を肯定していたと気づいて、むしろ嫌悪感を抱く事になる。

 だが、男の価値観は、自分より強い敵を倒す、という短絡的で単純だからこそ、それが巨悪であったり身近な憧れの存在だったり、善悪を超越した自己成長のための価値観なので、男から見れば自己同一視しても損はないし、女から見れば自分を守ってくれる王子様だから、誰も損しない。

 女の作家が目指すのは、こういう普遍性で、だから、それを出来る漫画家は少女漫画を捨てて少年漫画を戦場に選ぶ。

 女の価値観の転換が早過ぎて、それが良くも悪くも女の価値観に普遍性を持たせにくくなってる。例えば、ある高校3年間の流行は、卒業した元女子高生にはもう理解が出来ない馴染みのないものになる。でも男は、良くも悪くも権威主義的なところがあるので、ガンダムという冠で個別作品としては違うが伝統として残りやすい。女向けだとセーラームーンがわりとそれに近いが、あれは登場人物が同じという設定で、そういう意味で好意を持つ人物としては同じだし、プリキュアなんかはガンダムと同じ伝統系だが、そもそも、あれは男のメインスタッフが構築したものだし、女には流行はあっても伝統が希薄なので、表向き同調するけど本音は違うという社会性が高いゆえに、男よりも世代を超えた文化を作りにくい。

 女は、小学生の頃に中学生の男に憧れて、中学生の頃に高校生の男に憧れて、高校生なら大学生、大学生なら社会人、30過ぎたら歳下、という価値観の変動が柔軟。だが、男のように何歳になっても20歳の美人が好き、という愚直な価値観が、逆に世代を超えた共通点になり長期的な文化としての伝統を作りやすくしており、結局、女が男と同等の価値があると示したいなら、それは自分の好き嫌いから脱却するという、自己批判を受け入れなければならないから、恐らく男女平等は原理上不可能。

 女に生理がある以上は、男と同等になるのは無理。生理の時は休ませろというのは至極真っ当な要求だが、客観的に見ると、生産性と感情の起伏が激しいブレ幅を何で他人が配慮しなければならないのか、と個人主義が進むほど軽視される。女の主観からすれば、生理の有無は自由意志が全く無い理不尽な自然災害なのだから救助を求めて何が悪い、という主張は全く理にかなっている。

 ただ、生理と妊娠の負担がある以上、女の経済的な生産性は絶対に男には勝てないし、スポーツなど一部のジャンルでは絶対に1番にはなれない。だから、結局女の最適解は、愛想良くして不都合を許容してもらえるように愛される行動に集約される。そして、そのストレスの吐口が生理のない男に向くので、結局、女は男に依存しながら男を恨む事をやめられない。幸せそうに見える女は、女である事を全肯定して男に好かれて程よく男を馬鹿にする程度に弁えてる人で、女の問題の原因を男に求める女は、賢い女から見ると馬鹿な女に見えるし、男からすると敵になるし、誰も何も得しない。しかし、日本の少子化を見るに、女は自由を代償に、馬鹿になる自由を行使しているように見える。

 こういう俯瞰的な価値観を、例えば上野千鶴子みたいなインテリは表明しているけど、だが、彼女は、平均的貧乏人になろうと言いながら高給インテリの立場を手放さないし、男を批判し結婚願望を持つフェミニストを批判しながら高齢結婚して豪邸に住んでるし、理屈を売りにしているインテリ職業ですら、女の支離滅裂な本性を覆せないどころか甘んじる代表例になっているので、結局、男にとっても女にとっても賢いのは程よく男を立てながら小言で男を馬鹿にする程度の保守的な女、という事になってしまう。

 女は男を多角的に評価してるはずなのに、結局は金持ちに集約されるが、男は若い女という1つしか求めていないのに、簡単にセックスさせてくれる、とか炊事洗濯をしてくれる、とか、同じ趣味を共有してくれる、とか現実には評価軸が複数ある。これも結局、女と男の原理と結果が逆転している。

 女の価値観は、最初から10とか100とかあるけど定数なので上限がある。男の価値観は1しかないけど、1を無限個組み合わせられるという柔軟性があり、だから、どうしても世代を跨いだ価値観や文化や技術の功績が男に偏る。芸術系で女が評価されるのも、女という性別も含めた商品価値なので、性別不問の評価とは言えないし、良くも悪くも女の声や女の顔や女っぽいのは男からすると異性消費で女からすると自己同一性で商品価値があるから。例えば、今井むつみという女の学者は実に立派な功績を持っているが、それは統計という男的な価値観を扱える稀有な女であり、鋭敏な無意識を持つがゆえに経験則に依存する一般的な女とは一線を画す個体に過ぎないから、優秀な女がいるにも関わらず一般化を出来ない。

 男も偉業そのものはあくまで才能を持つ個人に集約されるが、男が求める功績は、見た目とか性別に依存しない価値基準が多い。世界一早く実現したいとか、世界一の金持ちになりたいとか、世界一多くのxを所有したいとか、欲望の対象は単一でも、その価値は普遍的。だから、男の功績は、ある才能と運を持つ天才が確率的に実現しただけなのに、男の功績という共通認識を持たれやすい。

 しかし、女は、髪の長い私を好きになる人、髪の短い私を好きになる人、胸の大きい私を好きになる人、胸の小さい私を好きになる人、炊事洗濯をする私を好きになる人、炊事洗濯をしない私を好きになる人、と価値基準が誰かに愛されることで、例えば、グラビアアイドルに好かれるわけでも無いのにスリーサイズを全て暗記する、なんて極めて馬鹿げた事を女がしないからこそ、それを応用して無作為の数字を暗記する事に抵抗がない能力を開発する事が出来ない。

 女の普遍性は、自分個人が愛される事に集約しているから、その行き着く先は自分を愛さない存在に不満を抱く事で発展性がない。

 男の普遍性は、すぐに役立つことから全く役立たない無駄な事まで範囲が広いからこそ、世代を超えてある時突然有益だった事がわかる可能性がある。だからどうしても、女の普遍性は恋人や妻や母といった立場に限定されて、男は伴侶の有無を問わない分野の礎になる。

 美味しいものしか食べない賢さが女の限界で、度胸試しで毒を食べる馬鹿な男が、結果的に科学や文化の幅を広げるという皮肉を認識しないと、そもそも女が受動的で主体性の無い存在だと示す証左にしかならないので、そこを改善するべきなのに、フェミニズムもDEIやポリコレも、それを頑なに無視するか無自覚。

 女の本音を堂々と公開している、という点で面白い作品だが、逆にいうと、どこまで行っても女は自己肯定が原理原則であり、インフラや法律や経済といった社会制度や、音楽がどういう知識で成り立っているかの知識の整合性に無頓着である馬鹿、という事を、主役を肯定するほど視野狭窄の稚拙さが明るみなるという、実に皮肉がきいてる作品であった。

 数学的な無限や、人類が持つ価値観の限界、といった超然的な価値観を持つ女の出現を期待する。