男の作品は狭いのに広い。女の作品は広いのに狭い。

 上記のリンクを見て、常々思っていた事が明示されたと思った。

 男向けとされる作品の絵柄と題材の幅広さに対して、女向けとされる作品の絵柄と題材の狭さ。

 女は男よりも幅広さや選択肢を求める。化粧品や服装や髪型など、社会的礼儀が必要な場所以外の完全な私事の時間ですら、自身に細かく幅広い要素を求める。

 逆に男は、焦点を1つに合わせて特化する事はあっても、それ故に柔軟性に欠ける傾向があるが、こと娯楽作品だと真逆の印象を受ける。個人というよりも、集合の話として。

 相手の世代、人種、性別を問わず分け隔てなく接する女が描き求めているのは画一的な美男美女ばかり。主要キャラにデブやブスはいない。デブやブスを題材にしているなら、それらは肯定的に描かれるが、累計的な作品の主要キャラにデブやブスはいない。

 男が描く男向けの作品も、ブスは極端に少ない。しかし、デブも入ればおじさんおばさん爺さん婆さん色々といる。女の作品にも勿論それらはいるが、豊麗線を描いたところで10代がコスプレをした様な幼い顔ばかり。

 男の作品は人外も登場しやすく、表紙も人間とは限らない場合もあるが、女の作品も妖怪は定番だが、実は美男美女でしたが定番。

 現実と創作の逆転現象はなぜ起きるのだろうか?

 例えば、女は男よりも察しがよく非言語の情報に敏感とされるが、言葉はいらない、背中で語る、という価値観は一般的に男のテンプレとされて、女の描く漫画や小説はとにかく言葉に依存している。私はあれに対してこう思っている、あの人はどうだろうか。男の作品だと、細かい事は知らんがとにかくやるぞ、となる。

 例えば、敵対関係も、男女で扱いが異なる。男の場合、かつての敵が仲間になる、かつての仲間が敵になる、それは立場の違いであり本音とは無関係である、というのがテンプレである。女の場合、敵味方の関係が逆転すると、許されない敵、実は超いいやつだった味方の区別が明確で、感情などの認識と立場が同一視されて、主役である女を肯定するかしないかで善悪や敵味方が決まる。

 しかし、現実には、攻撃的な差別の事件は男が起こす事が多く、少なくとも女は表向きは、犯罪など極端な事をしない限りは許容する傾向がある。

 誰か、この逆転現象を真面目に研究して本にまとめてくれないだろうか。