世界には色んな娯楽があるし、人生には色んな経験がある。読書はそれらの中にある一部に過ぎない。その上で、本とは今の所はYoutubeなどの動画よりも古く確実な知識を得られる点で優位である。
自分は月に1冊は何かを読んでいるが、月に1冊も読まない層が6割らしいので、圧倒的とは言わないが少数派ではある。
そこで多数派である6割が何故読書しないのかを考えたがlよく言われる理由は以下である。
- 読書は時間がかかるので仕事をしていると忙しくて出来ない。
- 本以外から情報を得られる時代になった。
- 10万文字の文章を読める能力は左利きのような特殊な性質。
それは自分で文章を書かないからではないか。
この場合の文章とは、100文字*xのSNS的な短文の反復ではなく、この記事のように1,000文字以上のまとまった長文を指す。
例えば、楽器演奏や作編曲をする人間は音楽を分析的に聞くし、スポーツをやっている人間は他者の動きが自分にも出来るか否か考えながら見るし、映画監督なら構図やカット割などを見る。
つまり、行動=出力する者は常に自分の出来る事を増やそうと別人が実現している同じ分野の何かを貪欲に探し求めている。同様に文章を書いているからこそ長文を読めるし求める。
60分の動画は見られても数日かけて読書を出来ない層は、自身の行動が60分程度で終わる事、他人に数日かけても価値があると認めさせる何かを実行していない人生だから読書を軽視するのではなかろうか。
子供を持てば親の気持ちがわかるように、文章を書かないから読書をしないのではないか。
ただ、末端にそういう能力が求められていないというのも事実で、多くの仕事や消費は企業や消費者から熟考を求められない。何も考えずに消費せよ、疑問を抱かず言われた事を実行せよ、基本的にSNSやショート動画や推し活が暗黙で主張しているのはこういう事である。そこに適応が出来る人間ならば、読書に価値を見出さないのも、ある意味では当然で合理的である。自分の周囲に平仮名しか読めない子供しかいなかったら漢字の勉強なんて面倒でやっていられない。企業や消費者が自分に即時性と最速だけを求めるなら、読書の性質は需要に反発する愚行に過ぎない。
本を読まないのは、ある意味で合理的な側面もある。ただ、自身が長期的な行動の価値観を示せない、あるいは認めていない、これら奴隷的な人生の結果に甘んじていないだろうか。自分で1,000文字の文章を書けば他者の1,000文字から学ぼうとするのは自然な流れで、クリスマスに浮かれている恋人達の様子は独身なら目障りだが、自身に恋人がいたら己でも同じ事を肯定的に実行したのではないか。
読書以外の経験や能力も世界には必要だが、読書をしない理由を本という媒体のせいにして、根本原因は自己の立場や価値観における長期的な思考や行動力の欠如、という事に無自覚なのではないか。
本を読まない自由はあって当然だが、それは1,000円を持つ人間が100円の物を買う選択が自由なのであって、500円しか持たない者が1,000円の物を買えない事を自由とは言わない。
本を読まない自由はあって当然だが、本を読めない能力や立場に甘んじる事は、果たして人生において良い事なのだろうか。

