押井守の監督論と抽象的思考


押井守が監督論を語った動画。監督に必要な素養、あるいは監督がすべき事を彼なりに語っている。曰く、電信柱を見た時に〈電信柱だ〉と見るような人間は監督には向かない。映画監督とは電信柱を見て〈視覚的に何が起きるか〉〈物語的のどう使えるか〉などを無意識に考える人種であると。

芸術は定義が出来ない曖昧な概念だが、自分は以下の2点が条件だと認識している。

  • 見えているものから見えてないもの、聞こえている音から聞こえない音を想像する。
  • それを具体的な形や行動で示す。

自分にとって芸術とは美しいとか肯定的な概念とは限らない。そして、芸術とは崇高なものでもない。国語や数学が明記されている情報を100%肯定して1意の正解を求める既知の集積とすると、芸術は1意に定まらない未知の選択肢を提示する事。だから国語や数学などの学問と比べて曖昧だが、これは互いの補完しあう関係であって対立するものではない。

正解率16.3%で話題になった〈アミラーゼ問題〉という文章問題がある。

この問題文が如何に悪文かという事を8,000文字を費やして批判と添削した記事がある。

自分はこれを読んで全く見当はずれな主張だと評価した。何故なら、自分はデンプンこそ小学生の頃にジャガイモを使った実験で既知だったが、アミラーゼ、酵素、グルコース、セルロースが何なのか全く理解していないし、句読点や文法にも何ら問題がない事を以下のように発想して理解しているから。

自分は未知の単語がある場合、以下のようにして考える。

【抽象化】
AというBはCがつながって出来たDをXするが、
同じCから出来ていても、形が違うEはXを出来ない。

【単純化】
AとBはCのDをXする。
だがCのEはXしない。

Xじゃない=Y

ABCD=X
ABCE=Y

【問題】Eは ( ) と形が違う。
①A
②B
③C
④D

Eは ( ) と形が違う、の〈形が〉は不要なので、
Eと違う、のはABCDのどれ?

XとYの違いを生み出しているのはDとEなので、Eと違うのはD。
つまり、正解はDの〈デンプン〉である。
さて、ABCD=XとABCE=Yを見て、句読点や語彙に問題のある悪文に見えるだろうか? 原因が何かは自明ではなかろうか。
もしも、ここまで抽象化するとわけがわからないよと頭がキュウべえしたならば、以下のように置換する事も可能である。
妻から貰ったドッグフードは飼い犬のコーギーを魅了するが、
同じ飼い犬でも、犬種が違うゴールデンは魅了できない。

【問題】ゴールデンは( )と犬種が違う。
①コーギー
②妻
③飼い犬
④ドッグフード


今田美桜の美貌は日本中の男を魅了するが、
同じ日本の男でも、アニメ好きのオタクは魅了が出来ない。

【問題】オタクは( )と趣味が違う。
①男
②今田美桜
③日本
④美貌

如何だろうか。これらは名詞だけを置換しただけで語順や文章の論理構造は全く同じである。アミラーゼ問題がこれら〈飼い犬〉問題や〈今田美桜〉問題だったならば、正解率は50%以上だったのではなかろうか。

アミラーゼ問題を悪文だのなんだと批判する層は批判や指摘に8,000文字を費やそうとも、自分がやった抽象化モデルや置換を出来ないから不正解になる。つまり、不正解の層は書かれている名詞が未知なら文法や語彙に論点をすり替えるが、実は未知の単語に過剰反応しているだけで、正解が出来る場合は既知の名詞から連想しているだけなのに、その暗記による反応を読解力と勘違いしている。書かれている未知の単語を、書かれていない既知の何かに置換や想像して、未知の単語だろうと既知の単語だろうと成立する論理構造であるとは理解していない。

さて、押井守は映画監督とは電信柱を見て、見ている電信柱を退屈な物体ではなく、物語や設定や映像にどう活用するかを考える性質の職業であると示している。そして、それは自分が示した通り、国語や数学の問題にも応用が出来る、反応ではなく発想を重視する芸術的な能力の賜物である。

音楽にはコードという複数の単音を同時に鳴らした和音を様式として把握する音楽理論がある。Cというコードはドミソ、ドソミ、ミソド、ミドソ、ソドミ、ソミド、というドとミとソの異なる並び順を全て同じ物だと単純化して暗記する。だから、この6種類の組み合わせを見たらCだと単純化する能力と、Cという文字を見たら6種類の選択肢を瞬時に反応が出来る変換能力が求められる。

そして、この音楽のコードの解読とアミラーゼ問題という文章問題は本質的に全く同じ事をやっている。即ち、物事は1:Xの変換に過ぎない。単語を暗記する場合には文字と意味は1:1の関係で良いが、世界を理解するためには抽象的に1:Xと考えないとわからない事が多すぎる。

自分はだから、現在の国語や数学の実学ばかりを重視する学歴主義は失敗しているように見える。音楽や絵画など芸術を実学から乖離した娯楽としか認識していない価値観は非常に危ういと思う。国語や数学は明示されている条件を素材にして1意を求めるが、音楽や絵画など芸術は明示されている条件から不明な何かを想像する、これらは補完関係にあり対立や優劣の関係ではない。

今井むつみは分数が理解が出来ない子供が増えた、あるいは目立つようになったのは、音楽や家庭科を軽視する学歴主義の弊害ではないかと予想している。音楽とは、拍子やテンポや音符などによって、曖昧な感情や情緒を数字で割り切り、4拍子ならばリズムや音符はX/4だと体感が出来る。家庭科ならば料理で砂糖と胡椒は2:3など調味料を通じて比率を体感が出来る。これらを軽視した結果、割合や比率が未経験の曖昧な概念になってしまったのではないか、というのが学力喪失で彼女が示した主張である。

理系の小説家である森博嗣は以下のように主張している。

抽象的すぎてわからない?
それがもう勘違いである。
抽象的だから理解できるのだし、
具体的すぎてわからないものが多すぎるのだ。
自由をつくる 自在に生きる (集英社新書)
これなんかはアミラーゼ問題の正解率を如実に示している。

自分は、むしろ未知の物事を目にすると抽象化や変換をしないと理解が出来ないので、具体的な記述に固執する指向を理解が出来ない。

織田信長の〈本能寺の変〉という歴史的事実があるが、自分は明智光秀が起こした謀叛の結果など人物や出来事を理解しているのに、この出来事の日付1582年6月2日という6桁の数字を何年も暗記が出来なかった。

では純粋に記憶力が悪かったり数字に弱いかと言うと、それも違う。

97843497716292
この14桁の数字は、自分が最も影響を受けた音楽家〈菅野よう子〉という人名をYoko Kannoと記述して、このアルファベットを36進数と解釈して、それを10進数に変換したものである。自分はこれを暗記していて暗唱が出来る。

数字ではないが、自分はThe West Wingというアメリカのドラマの以下の会話を暗記していて、いつでも暗唱が出来る。

The West Wing|私は闘う
A:導いたのはアナタだ。
B:今なんて言った?
A:わかっているはずです。
B:レオ
A:我々が中道派になったのは、
  アナタがそうしろと言ったからです。
B:誤解だろ。
A:いいえ、事実です。
B:喧嘩を売ってるのか?
A:大統領
B:君が言ったんだぞ。
A:聞いてください。
B:君が言ったんだぞ。
  私の家へ来て、大統領選に出ようと。
  理由を聞くと、こう言ったろう。
  自分の意見を言えるようになると。
A:大統領。
B:あの部分はどこへ行った。
A:意見を言えばいいじゃないですか。
  ここなら、カメラにもマイクにも不足はないでしょう。
  いったい何を待っているんです。
B:レオ
A:アナタは逃げている。
B:私は今朝…
A:逃げているんですよ。
  理由はただ1つ。
  1期だけの大統領では、終わりたくないからだ。
B:選挙委員会に改革派を入れろと言っただろう。
A:そうは言ってません。アナタは…
B:レオ
A:いいえ、こう言ったんです。
  足を突っ込もうとね。
  水に飛び込むんじゃなく、足を突っ込むだけでいいんだ。
  そうすれば、敵を作らず、努力したように見せられると。
B:それはあくまで君の視点から捉えた事実だ。
A:マンディのメモだってそうですよ。
  1つの視点から捉えた事実でしょ?
B:教育問題も、キャピタルゲインも、
  君が私の所へ持ってきたんだ。
  中国問題にしても、銃規制にしても、そうだろう?
A:持ってきたって言いますけど、
  アナタは銃規制にも教育問題にも何もしていない。
  足を突っ込むだけで、全て私任せだ。
  アナタのしている事は、全て中途半端で、何の結果も生まない。
  ジョシュは、今回の選挙委員会の件も様子見だと知っていましたよ。
B:馬鹿を言うな。
A:サムも、ゲイ問題を最初から投げていた。
  アナタが本気じゃないと、サムも相手側の連中も知っているからです。
B:私が選挙資金制度改革や、
  ゲイ問題に本腰を入れて取り組むと言ったら、
  君は、事を急ぐな、やりすぎるな、と言って止めるだろう?
A:もしアナタが何かに本腰を入れると言ったら、
  私は喜んで着いていくと答えます。
  でも、アナタの口から、そんな言葉を聞ける事は決して…
B:言った所でどうなるもんでもないだろう。
A:言ってくれれば、すぐにでもやりますよ。
  私がスタッフを動かします。
  アナタの為なら、彼らは火の中にだって飛び込むでしょう。
  アナタの為なら、労を厭わないし、
  アナタの為なら、いつでも戦うんです。
  彼は、アナタの娘と付き合うことで脅迫されている。
  あるパーティは絶対に行くな。行けば命は無いと脅された。
  それでも行くという彼を、アナタは止めたでしょう?
  賢明かどうかは別として、この週給600ドルの21歳がそう言ったのは、
  人には戦うべき時があると知っていたからです。
  みんな待っているんです。
  アナタが決断するのを。
これを暗記して暗唱が出来るのだから、記憶力が悪いとは思われないだろう。自分でもそれには同意する。しかし、自分は〈本能寺の変〉や〈アレクサンドロス大王の生没年〉などを何年も暗記が出来なかった。14桁の数字や1,000文字程度の会話を暗記が出来るのに、精精3桁から4桁の数字を暗記が出来ない。自分には長らくこれが謎だった。

自分は変拍子の音楽を好む。以下は過剰な変拍子で知られるゲーム音楽の拍子を数字にして明記したものだが、自分は変拍子を把握する時は、このように記述して、これらの数字の配置を上下左右の空間的な情報として暗記して、数字の並びを空で書ける。

変拍子|マルク(星のカービィSDX)
https://youtu.be/6Xrhz3MEORo
|3|3|3|3|

|3|4|3|3|
|3|4|2|3|3|
|5|5|
|3|3|3|3|

|3|3|3|3|
|5|5|
|3|3|3|3|

|5|5|6|5|
|3|3|3|3|
|3|3|3|3|

自分は聴覚情報を上記のように視覚情報に変換していると言えるが、これらの数字を見た時に自分が音楽を脳内再生する時は、以下のような視覚情報が想起される。
変拍子|マルク(星のカービィSDX)
|・・・|・・・・|・・・|・・・|
|・・・|・・・・|・・|・・・|・・・|
|・・・・・|・・・・・|
|・・・|・・・|・・・|・・・|
これは音楽の拍子を数字ではなく楽譜として空間的に変換したリズム譜である。数字の値を点の個数に変換して、耳コピしたり解説する時には脳内のリズム譜を想起しながら音楽を聞く。自分はこの点の羅列を上下左右の位置関係を含めて暗記している。

そこで思ったのは、もしや〈本能寺の変〉の西暦を暗記が出来ないのは、数字のまま暗記しようとしているからでは、と思い至り、以下のように記述してみた。

【本能寺の変】
|・|・・・・・|*・・・*・・・|・・|
|*・・*・・|・・|
これは158262という〈本能寺の変〉の6桁の数字を6小節の楽譜に変換したものである。自分は6拍子は3+3や4+2、8拍子は4+4や3+3+2として把握するので、そのアクセントを示すために2つの記号を採用している。すると、これまでの苦労が何だったのか、1日で暗記が出来た。

大島璃音という美人がいる。ただ、今は彼女の存在はどうでもいい。彼女を知らなくても良い。問題は、自分は大島璃音の〈璃〉を読めるが空で書けなかった。

しかし、今は書ける。暗記したので。では、どうやって暗記したか。それは、画数を数字にして、その数字を先に示したように点の楽譜にした。自分にとって〈璃〉とは以下のリズム譜(楽譜)になる。

【大島璃音】
|・・・・|・・|・・・|
|・・|・・・|・・・|
自分にとって〈璃〉は6小節で合計17拍の変拍子の曲になる。ただ、これは実際の画数とは異なり〈璃〉の字は14画である。それを理解した上で、自分は1画で書く折れ線は、折れた箇所で区切って複数の線とし、それぞれ1拍として数えている。例えば三角は1筆で書けるが、3本の辺をそれぞれ1画として数えるのと同じ理屈。

だから、自分は〈璃〉ってどういう字だっけ、と思い出せない時は〈璃〉の字の形を思い出そうとせずに、上記の点の楽譜を想起する。最初は4拍子だったよな、んで次が2拍子で、次は何拍子だったっけ?……と小節ごとに連想していくと〈璃〉の字が想起されて書ける。

自分はこの性質を自覚してからは歴史の西暦や漢字を暗記する時は、数字なら楽譜、漢字なら楽譜を連想する数字の羅列にして記述している。〈特徴〉の〈徴〉ならば、行人偏がタンタンタン、山も同じ3拍子、王は4画だがタンタンタタと3拍目が8分2個の3拍子、最後の文も4画だから王と同じようにタンタンタタと3拍目が8分2個の3拍子、合計4小節の3拍子の曲(楽譜)として暗記している。

徴の楽譜
|タンタンタン|タンタンタン|タンタンタタ|タンタンタタ|
|*・*・*・|*・*・*・|*・*・**|*・*・**|
これは自分が特殊な性質なのか、汎用的な芸術の応用なのか、自分でもわからないのだが、物事を理解するのに具体的な記述に固執する必要はない、というのが論点であり主張である。

三宅香帆が考察する若者たちという本で、現在は考察は流行っているが批評は軽視されると主張している。この考察と批評の違いは岡田斗司夫との対談がわかりやすい。

考察とは作者が明示している情報を全て正しい素材として、その素材だけを使い正解を導き出す。対して批評とは、必ずしも作者の記述や認識が正しいとは限らず、記述されていない情報や要素を含めて結論を導き出す。つまり、考察とはアミラーゼ問題のアミラーゼや酵素などの具体的な情報だけを取り扱い、批評とはコーギーや今田美桜に置換したり、そもそも西暦という数字を全く無関係な楽譜として理解する事である。そして、現在は考察が重視されて批評が軽視される時代、そんなのどこにも書かれてないじゃん、と批評せず批判する時代だと彼女は主張している。

押井守の監督論も、アミラーゼ問題の不正解も、今井むつみや森博嗣や三宅香帆の主張も、自分の性質も、これらは全て同じで、世界を抽象化と変換する事で初めて理解や把握が出来るよ、という事である。

だから押井守の主張を自分はすんなり納得が出来たし、なんなら、監督という職業の特別な能力でもなく、人類にとって不可欠な普遍的な能力とすら認識しているので、むしろ監督論という具体的な枠だけで注目される事を心配している。学歴と年収を求めて国語と数学など実学だけやれば良いという層に軽視されてしまわないかと危機感すら抱いている。

勉強を必須だと思うなら芸術も不可欠だし、勉強や仕事の逃避として芸術に逃げるのも間違っている。これらは補完関係にあり、対立や優劣ではないのだから。