【引用A】
なんかホシノゲン(星野源@Star)めっちゃ天才っぽい。
この動画作った人の解説もいい。
なんかめっちゃ複雑なのに聞くのはめっちゃ気持ちよくて快感がヤバい。
FM9 Fm6/A♭ Am/G
F#m7-5 FM7 C/E D7 Dm7/G B♭9
https://x.com/hoyee2106/status/2055856815389462700/video/
【引用B】自分は、こういう4和音以上のコード曲は、本質的には以下の構造だと思っている。
これ、「コード進行が変わる」というよりは、ベーシックのコード進行は大きい流れとしてあるんだけど、「リフ的・メロディ的動きを全て和音・ベースで追従する」っていう仕組みにしてるから結果そうなってるみたいな感覚。
譜面にそのまま全部記譜するのは違うよなぁ、と思いつつ、でも記譜しとかないと再現できないよなぁ、とも思うし。
https://x.com/gentomiyano/status/2056236306603102616
- 必須なのはメロと根音。この2声が根本。
- それ以外は基本的に1つの内声がメロと根音に対してハモと非和声音の対旋律の両方をやっている。
- その内声が歌う単音を時系列の旋律(メロ)ではなく、同時に発音する事で和音(コード)になってる。
- 本質的には3声(3和音)のメロがいるだけで、時系列の変化を省略して和音にしている。
例えば、FM9の場合、フラドミソの5和音で成立している。
しかし、自分の認識はこう。
【FM9の場合】以下は左から右に進行する時系列
| メロ | ソ | ソ | ソ |
|---|---|---|---|
| 内声 | ラ | ド | ミ |
| 根音 | フ | フ | フ |
変化しているのは内声だが、これがメロや根音であっても良い。
肝心なのは、4和音以上の和音は、実は3和音の時間的変化を省略して同時発音しているだけじゃないか、という発想と認識である。
これを引用AのようにFM9からFm6/A♭と漢字のように認識しても良いし、引用Bのように漢字の単語と単語の間にひらがなの助詞や活用と認識しても良い。
自分の場合は、コード、漢字とは1文字に見えても実は複数の文字の集合として見ている。
例えば古は十と口だし、女は〈くノ一〉のように。
常にそうやって見ているわけではないが、漢字の意味を考えたり暗記する時に、自分は集合と要素の2階層で見ている、という話である。
同様に、音楽のコードも4和音以上でも、実は3和音の単音メロが動いた時間的な変化の結果を、静止画のように同時発音しているだけなのでは、と認識している。
実際、我々が慣れ親しんでいる西洋音楽の音楽理論に基づく音楽は、単旋律からユニゾン、ハモ、そして対位法、と1:1を基準に色々と派生させて発展してきた。
それをジャズが〈まどろっこしいから最初から全部発音しちまおうぜ〉と複雑な和音に発展させた。
現在のポップスは、クラシックの旋律的発想とジャズの和音とリズム的な発想の子供であり、構造はクラシック的だが実践がジャズ的と言える。趣味は父親と同じだけど顔や性格は母親そっくり、みたいな。
論点は違うが、以下のような話もある。
【引用C】自分はこれら2つの話題で、古典的な音楽理論の考えが実は害悪な可能性を考えている。
コードの展開だけを先に決めすぎてしまうと、特に慣れていないうちはメロディがものすごくコードに引っ張られたものになる。そして思ったほど良いメロディにならなくて作ってる本人もうーん、となります。個人的にそのあたりに「〇〇進行」の悪影響のようなものがあると思っていて、つまりその〇〇進行を先に前提として決めすぎてしまうと、〇〇進行の中でしかメロディを動かせなくなってメロディ作りに制約が生まれて窮屈になって恐らく全然楽しめないです。
もちろん曲作りの練習としてはコードの枠組みを先に決めてしまうことによるまとめやすさはあります。でも、本格的にやるならコード進行はそれなりに曖昧にしておいて、メロディの行きたがっている方向と相談しながらメロディとコードのお互いを尊重しつつ徐々に展開させていくやり方が望ましいです。
というか、メロディをコード進行でどう輝かせるか、シンプルなメロディをハーモニーでどう化けさせるかを考えるのが作曲の楽しいところなので、メロディ作りとコードの展開作りの両者を柔軟にやれるようになって、選択肢を広げて、そのうえで最高に気持ちいい組み合わせを見つけたときの満足感を味わってほしいです。
https://x.com/sakkyoku_info/status/2055999965990891610
音楽理論の基本はソプラノ、アルト、テナー、バスの4声で和声(コード進行)を考えるが、実は多くの音楽は、メロ、内声、バス(根音)の3つで、そして、これは全て3つの単音メロの動いていて、それが結果として綺麗な和音(コード)になってるだけではないかと。
例えば薔薇という漢字は難しくて書けない、という定番ネタがある。
しかし、自分は書ける。
理由は、薔は〈草冠、土、人、回〉で出来ていて、薇は〈草冠、行人偏、山、一、几、文〉で出来ている。
加えて、これらの画数を33226という拍子、3334という拍子として暗記している。
自分は漢字を暗記したい場合は、
①視覚的に小さな要素の集合として見る。
②書き順や画数を音楽の拍子として区別する。
この空間的認識と時間的認識の両方を駆使している。
その意味で、複雑なコードで感動する層は、難しい漢字を画数が多い1文字としか認識していないのではなかろうか。
これは定期的に話題になる〈アミラーゼ問題〉にも通じる。
アミラーゼという酵素はグルコースがつながって出来たデンプンを分解する。
だが同じグルコースから出来ていても形が違うセルロースは分解を出来ない。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢の内から1つ選びなさい。
【問題】セルロースは( )と形が違う。
①デンプン
②アミラーゼ
③グルコース
④酵素
この添削と称した長文を読んで、自分は呆れた。
4和音以上のコードの連続を複雑と感じる層も、ある意味で同じだと感じた。
自分はアミラーゼ問題を以下のように理解する。
AというBはCがつながって出来たDをXする。これを式にすると以下になる。
だが同じCから出来ていても形が違うEはXを出来ない(Y)。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢の内から1つ選びなさい。
【問題】Eは( )と形が違う。
①A
②B
③C
④D
ABC+D=X
ABC+E=Y
XとYの原因はDとEなのだから、E(セルロース)と違うのはD(デンプン)になる。
以下のように更に単純化も出来る。
A=アミラーゼという酵素は式にすると、
B=グルコースがつながって出来たデンプン
X=を分解する。
C=だが同じグルコースから出来ていても形が違うセルロース
Y=は分解を出来ない。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢の内から1つ選びなさい。
【問題】セルロースは( )と形が違う。
①デンプン
②アミラーゼ
③グルコース
④酵素
AB=X
AC=Y
XとYの違いはBとCなので、C(グルコース+セルロース)と違うB(グルコース+デンプン)になるから、やはり答えはデンプンになる。
複雑なコードに振り回される層と、アミラーゼ問題を句読点や語彙や知識の問題だと誤認している層は共通しているように見える。
明記されている記述を絶対視して、分解と再構築が出来ない。
もっと言うと具体的な情報に固執して、抽象的な理解に及ばない。
自分は、アミラーゼや酵素やグルコースがどういうものなのか全く知らない。
だからこそ抽象化(記号化)して成立するか考える。
自分は音楽のコードを漢字で比喩した。
アミラーゼ問題を同じように書いたが、実はやっている事は逆である。
漢字は集合から要素を抽出して、アミラーゼ問題は要素を集合に変換した。
これは帰納と演繹と言っても良いかも知れない。
個体から全体、全体から個体を見出す。
例えば、AとかBなど抽象的な記号っで理解が出来ないなら、以下のように日常的な名詞で置換しても良い。
妻から貰ったプレゼントは飼い犬のコーギーを魅了するが、これで問題文の意味を理解してゴールデンとコーギーが違うと正解が出来るのに、アミラーゼで不正解なら、それは既知の単語に反応しているだけで文章の論理や構造を理解してない事になる。
同じ飼い犬でも犬種が違うゴールデンは魅了できない。
【問題】ゴールデンは( )と犬種が違う。
自分が危ういと思うのは、全体と個体の区別がつくのに、実は任意で往復が出来る層が少数派なのではないか、という事。
星野源のStarで言うと、FM9からFm6/A♭は5和音から4和音と複雑に見えるが、長3度が短3度、長7度が長6度、9thが無くなって根音が1度から短3度に移動しただけである。
根音の移動も1音と数えると5和音Xから5和音Yに大きく変化しているように見えるが、
①長3度から短3度
②7は6に移動
③9は退場
と実はXの要素3/5個を変化させてるに過ぎない。
コードの記述は変化している音と変化していない音を区別しない。
FM9とFm6を見ると、共通点はF単音だけに見える。
だからコードだけ見ると全ての要素が変化しているような錯覚をするが、実は変化しているのは半分ちょいに過ぎない。
そして、これはクラシックの音楽理論の基礎で、変化と継続の両立である。
自分は菅野よう子の音楽を好きだが、その理由の1つに、実に長い保続音がサビで多用されるから。
例えば、以下のようなコード進行がある。
| 保続単音 | ソ | ソ | ソ | ソ | ソ | ソ |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 和音 | ドミソ | ミソド | フラド | レフラ | ミソシ | ラドミ |
| 最終的なコード | C | C/E | Fadd9 | Dm add 11th | Em | Am7 |
分数コードや7thや9thや11thがあるから複雑に見えるが、実は3和音の単純なダイアトニックのコードに、ストリングスのヴァイオリン(1st)がずっとソの全音符を弾いているだけである。
CからFの2つのコードだけを選択しても、ソはCの完全5度、そしてFにとってadd9thになるので、ヴァイオリンは動いていないのにオシャレなテンションコードになる。
これは保続音のソは動いていないが、人間がAhhhとかUhhhとか魂の叫びをするように、ヴァイオリンの保続音がメロという認識で作られている。
その音程が動かないメロが偶然にも伴奏のコードと噛み合うと分数コードや7thや9thや11thのような複雑なコードに見えるだけである。
これはコード音楽の土台となっている和声の基本だが、その源流は対位法にある。
対位法とは2つ以上の異なるメロを同時に演奏する曲の様式で、よくバッハが例示されるが、バッハの曲は現在の様式と乖離しているので多くの人にとってピンと来ないだろう。
自分は対位法を説明する時は、以下の曲を採用している。
【The Garden of Everything】
この曲のサビは、左でSteve Conteという歌手がオリジナルのメロ、右で坂本真綾という女の歌手がクラシックの韃靼人の踊りのメロを歌っている。
以下の動画の場合は、同じ伴奏で、左の女がThe Eye of The Tigerという曲のメロを歌い、彼女が歌っている横で、男がThe Final Countdownという別の曲のメロを歌っている。
これも対位法の典型例で、2つの異なる音楽家の異なる曲のメロを同時に歌って1つの対位法の曲に仕上げている。
これらは男女の歌手が織りなす2声対位法だが、ポップスだとこうやって2人の歌手がやってくれるのでわかりやすいが、クラシックを土台とする器楽だと歌手が不在で複数の楽器でこういう事をやる。
だから、クラシック系の音楽家はポップスのようなコード音楽でも対位法的な音楽を作る傾向がある。
今度は歌手と楽器の対位法の具体例である。
【星と翼のパラドクス】
この曲は大サビで2周するが、1周目は歌がサビを歌っているが、2周目のサビ頭で歌手が〈会いたい〉
と長音で歌い始めるのと同時に、ヴァイオリンが歌手より高音なメロディを演奏し始める。
しかも、その後に1周目のサビで歌われていた箇所を歌手が歌わない。
サビなのに、歌手は合間合間に歌うだけでヴァイオリンがメロを弾き続ける。
そして2周目の後半で歌手が歌を再開するが、ヴァイオリンもメロの演奏を止めずに、歌手とヴァイオリンの2声対位法になっている。
これは考え方の1つだが、コードとは2つ以上のメロが動いた結果、その音程(音階)を時間的な変化ではなく同時発音させた結果に過ぎない、と言える。
コードは対位法より劣る、とか、逆にコードは対位法に勝るという話ではない。
肝心なのは、1つの対象を複数の価値観や思想や概念で見る事が出来るか、という点にある。
コードは極めて簡単な音楽記述の1つで、自分もコード無くして音楽の理解は出来ない。
しかし、コードだけでも音楽は理解が出来ない。
例えば今田美桜という美女がいる。

彼女を見て、ただ美人だな好きだな、と思うのがコードの考えである。
しかし、どうして美人に見えるのか。
人種か、年齢か、肌の色か、目の大きさや配置か、髪型か、服装か、表情か、化粧の色か、背景の雰囲気か、美人を見た時にただ好意を持つのと、こういった要素を意識か無意識かで考えるのとは大きな差がある、という事。
美人を成立させる要素は複数あり、その中で自分の判断基準はどこにあるのか、それを自覚するのが大事で、コードだけで複雑と認識したり、アミラーゼ問題を具体的な記述や知識問題だと錯覚する層は、無意識の慣れ親しんだ知識や経験のみを対象に適応しているだけで、異なる概念、異なる発想、具体的から抽象的、抽象的から具体的と、概念や認識を自由に飛び回れない結果なのではないか。
自分はそう認識している。
現在の学歴社会において、国語や数学と比較すると芸術はあくまで娯楽の派生という評価が一般的である。
しかし、芸術とは国語や数学と変わらない。
国語や数学が基本的に文字を使って具体と抽象を往復するのに対して、絵画や音楽は非文字の記述や行動によって具体と抽象を往復する。
神を見出すのも、誰かを愛するのも、文章を読み書くのも、数式を計算するのも、絵を描くのも、音楽を演奏するのも、具体と抽象を等しく扱うという点で脳は同じ事をしているだけなのに、好き嫌いや優劣で不毛に分断されている、というのが自分の認識である。