坂本真綾のプラチナを好きなファンから菅野よう子の編曲が軽視されている

 坂本真綾の歌手30周年の人気投票で1位に選ばれた曲プラチナ。しかし、菅野よう子以外の人物による編曲やカバーで思うのは、どいつもこいつも坂本真綾の歌を好きなだけで菅野よう子の編曲なんぞ何も感じてないという事。

 何故そう思うのかと言うと、間奏の扱いが雑すぎる。まず原曲だが、大サビ前の間奏はヴィオラが間奏メロを提示して、途中からヴァイオリンが引き継いでいる。そして、伴奏に回ったヴィオラは単純にコードの全音符を弾くわけではなく、パッセージを混ぜた対旋律として動いている。つまり、対位法を使っている。

原曲


 つまり、菅野よう子は間奏を単純なメロと伴奏と言うホモフォニィで書いたのではなく、メロA、メロB、伴奏という3パートで間奏を作っている。しかし、以下のカバーは間奏メロを変更するだけならまだしも、メロとコードだけで対旋律(裏メロ)が無い。

カバー





 なんなら〈坂本真綾〉本人のライヴすら、このヴィオラを軽視して全音符のタイでコードの1音を埋めるだけと言う軽率な仕事をしている。編曲は河野伸

 坂本真綾を好きな人は、割と菅野よう子を好きな場合があるが、彼らは口では好きと言いながら、彼女がどれだけポップスの様式に甘えない細やかな仕事をしているかなんぞ関心が無い事がこれらで示される。連中は歌(メロ)とコードしか聞いていない。

 菅野よう子は、もともとラヴェルを好きでクラシック畑の人間であり、1985年の作曲家デビュウも和音数の少ないゲーム音楽だったのでバッハのようにやるしかなかったと言っている。

 つまり、彼女の前提として、メロとコードという単純な主従の音楽ではない。坂本真綾以外の曲を聞いても明らかだが、彼女の曲はほとんど対旋律(裏メロ)が存在する。しかし、彼女を肯定している人間ですら、ほとんどメロとコードでしか認識をしていない。主メロに対してどういう裏メロが絡んでいるかなんぞ耳に入っていない。

 自分が坂本真綾菅野よう子のファンと自認する人達と話が合わない理由がそこにある。歌メロや間奏メロの裏でどんな対旋律が弾かれていたか歌えないどころか認識をしていない人ばかりだから。そう言う人達は、逆に彼女の音楽から何を学んだのだろうか。菅野よう子編曲の本でコードはわからないと公言している。本当は全部を音符で記述したいが、それだとギタリストが弾けないからコードで書くように怒られたと記述している。

 つまり、彼女の中で和音はあっても転回が不定のコードではなく、全てクラシック的に意図がある任意声部の結果がコードと近似しているに過ぎない。その原理を理解する気もなく雰囲気だけで好きだの尊敬しているだの発言しながら、メロとコードの外にある彼女の意図を無視する仕事と自称ファンが多すぎる。彼女の音楽を好きだと自認するなら、主メロとコード以外の音を聞いて丁寧な配慮を感じて欲しい。