楠木ともり、という声優が26歳で結婚した。自分は彼女を全き知らない。今後も知る事はないだろう。ただ、声優など芸能人が結婚すると壱定数の消費者は阿鼻叫喚となる。自分にはそれが全くわからない。
1996年から知る坂本真綾が鈴村健一と結婚した時は素直に嬉しかった。彼女が長期休暇を発表した時も、ついに子供かめでたい、と思ったものだ。
花澤香菜は昨年に離婚を発表したが、自分はそれを他人事ではあるが少し悲しかった。昨年末には日笠陽子が離婚して、それも悲しかった。結婚と離婚は当事者間の問題なので、自分を含めて外野に良い悪いは判断が出来ないが、結婚は喜ばしいし、離婚は悲しい。
自分が好意を抱く声優や芸能人などの恋愛やセックスや結婚を喜べる人種と喜べない人種は何が違うのだろうか。
例えば、自分は顔の美醜プラスアルファで今田美桜や八木莉可子や加藤小夏を好評しているが、彼女らが誰と付き合って誰と寝て誰と結婚しようが自分の人生には無関係であり何も傷つく要素はない。自分が彼女らの表層しか評価していないのと同様に、彼女らも我々にとやかく言われる筋合いはない。
だが、結局彼氏がいると発覚すれば潜在的な消費者を失う事になるので彼女らは公表しないし、檜山沙耶のように過剰に男に無頓着なアピールをした結果、信者がアンチになった。
冒頭リンク記事でもVtuberという分野が挙げられているが、自分がVtuberに馴染めない理由はそこにある。
自分には疑似恋愛が全くわからない。自分は今〈同級生〉という1992年のエロゲを壱般向けにリメイクしたゲームをSwitchで遊んでいる。2次元美少女を消費している。ただ、当時このゲームを好きだった友達がいたな、とか、あの表現は令和ではどうなっているのだろうか、とか、今の知識と技術で作られたら、どういう快適さが得られるだろうか、など楽しんで、特典のアクスタとか関連グッズが欲しいとかキャラが可愛い過ぎて消費に走る、など全くない。
同じように、顔が綺麗で副次的に声が良いとか演技が上手いとか好評しても、別に彼女らの恋愛と自分の人生は全き無関係だし、そもそも彼女らの能力の1部に好意を持つだけで彼女らの人生に責任を取るわけでもない。
自分が今では声優やアニメに対する興味を失ったのも、業界と消費者がどちらも若さと顔を最優先した消費を礼賛し出したから。2000年代以降の萌え対等により、分布の狭い均質なアニメ声だけが歓迎されて稚拙になった。しかし、そう言った事を喜ぶ消費者は金払いが良いので資本主義的には歓迎される。現在の〈推し活〉という極めて下品な過剰消費を礼賛する文化も同様。
疑似恋愛をするのは自由だが、冒頭リンクの記事は2つともオタクという主語が疑似恋愛の条件であるかのように扱われている。
だとすると、カウボーイビバップの次回予告を全話暗唱が出来る、菅野よう子が編曲したストリングスを耳コピして現在の彼女が絡まない坂本真綾のストリングスを批判する、京極夏彦の小説〈絡新婦の理〉の序文400文字を暗唱が出来る、クリストファー・ノーランの映画テネットで上手回しは嬉々としてやったのに下手回しは出来ないと拒否した女はもう風に流されないで生きるという決意表明の意味があった、テネットの最初の場面の前に表示される企業ロゴの時に聞こえる音楽がリバース処理されてるから最後の場所は実は最初の場所だったという構成なんだろうと予想が可能、などこれらに該当しても疑似恋愛がなければオタクじゃないのだろうか。
そういう意味で、自分はオタクと言われていたし自認していたが、当時の恋愛対象の女と格闘ゲームをしたりアイススケートに行ったり海に行ったり温泉旅行したりと楽しい思い出があるので、今はもう恋愛や結婚とは無縁とはいえ、彼ら基準に照らし合わせるとオタクじゃないのだろう。
疑似恋愛がさっぱりわからない上に、オタクの定義もさっぱりわからない。