RPGのレベル上げを努力や成長と勘違いしている愚かな奴隷

 自分はファミコンで育った世代だが、RPGのレベル上げを〈成長〉と認識している人間は、現実の世界で努力をした事がない愚か者だと認識している。

 RPGのレベルとは、1時間かけたら時間に比例して報酬が確約されている。しかし、現実は、1時間で出来る人間もいれば、1年かかる人間もいれば、10分で出来てしまう天才もいる。その天才と比較して、天才の何倍もの時間や手間をかけてまで出来るようになる事が努力である。

 自分を含めて子供がRPGを好きなのは、報酬の量は時間に比例しており、成功も確約されているから。自分が出来るようになるかわからない事を継続する覚悟や意志が不要だから。

 自分は今でも高難度のRPGを遊ぶが、レベル上げは全く無駄だと認識している。レベルはもはや任意で、1で倒せる方法が見つからなければ2に、2で倒せる方法が見つからなければ3に任意変更が可能で良いと思っている。

 先日、FF5のリマスターを全クリしたが、経験値と獲得金額は最大の4倍にして遊んだ。これは難易度とは全く関係ない、原作でかかっていた無駄な手間が1/4で済むという事。

 RPGのレベル上げとは、本を1ページ目の1文字目から順番に読むのを強制しているシステムの欠陥だと思う。例えば、キーコンフィグを認めないゲームと同じで、折角デジタル技術の商品なのに、デジタルデータの快適や最適を任意で込められない欠陥商品。レベル1でクリアが出来るか検証したいプレイヤには経験値を0で良いし、自分の戦略や戦術を考える頭の無いプレイヤにはレベル99で良い。

 RPGは、ただ時間を賭けて反復するのを〈やりこみ〉と称する事があるが、この認識と文化は実に愚か。何故か覚えられない英単語、いつまでも弾けない小節……など、それらを改善した先に成長があるのであって、24時間かけてゲームの数字を99にした所で、それは継続を証明しただけで努力ではない。ぞれは、結果が確約されているから。成長とは、実現するかわからない事に時間と手間をかけて実現した結果にある。

 自分は、今だとサガ・エメラルドビヨンドを遊んでいるが、これも、基本的にレベルでは勝利を確定が出来ず、敵の行動の属性と効果を把握して、将棋のように1手のミスが致命傷になる回復のないシステムと、将棋と違い手順が不確定なランダム要素に対応する柔軟性、計算と不定の両方に対応しなければならない、レベルという純粋な数字だけで解決が不能なゲームだから面白い。

 RPGのレベル上げを成長とは認識している人間は、そもそもレベル以外に打破する方法があるのか、という発想がない愚か者。

 ひらがなだけを覚えて日本語を出来ると豪語する子供と同じで、漢字を使える大人は、ひらがなよりも文字数が少ない圧縮された情報処理を容易に実行する。しかし、レベル上げを成長と勘違いしている愚者は、文字数が多いほうが情報量が多いと全文をひらがなで書いてる幼児と変わらない。

 RPGの課題は、むしろ、レベルという数字の強制からプレイヤがどれだけ脱却を出来るか、こそが課題として残り続けている。10歳の子供と、30歳の大人が、どちらも同じn時間をかけなければクリアを出来ないゲームは、逆にプレイヤの個性を許容が出来ない駄作。プレイヤの能力によってクリア時間も攻略方法も異なる結果を出力が出来るゲームこそ名作。そういう意味で、レベル上げを成長と認識している人間は、発想も個性も不要で常時線形の報酬で報われる事が前提の単純作業に甘んじている、根本的な認識が奴隷であり、成長する事はない。