〈修羅の刻〉26巻の感想

 1989年から不定期連載をしている川原正敏の漫画〈修羅の刻〉の安倍晴明編が終わった。全4巻は源義経陸奥鬼一)と並ぶ最長の話になる。もっとも、源義経は最終巻が2冊分の厚みなので、量だけで言えば2番目であるが。

 今回で陸奥の2代目が描かれた。とは言え、初代は個人であって流儀を名乗ったわけではないから、陸奥圓明流の起こりは今回で描かれた事になる。

 前回の酒呑童子では何故か〈斧鉞〉の由来が描かれたが、今回は作品の代名詞とも言える〈無空波〉の由来が描かれた。陸奥圓明流は人殺しの技、という前提の作品だが〈無空波〉は戦闘ですらない、人を助けるために建築物を揺らすために生み出された、という展開には捻りがあって面白かった。川原正敏が老いて得た平和的な発想なのか、旧4部の時に批判された殺人否定論を今でも引きずっているのかはわからない。

 川原正敏の加齢に伴い、描かれる陸奥の年齢も高くなってきた。特に〈11巻〉以降は(元)陸奥の活躍を描くようになり、雷電編では精神的に主役だっただけの(元=非)陸奥も、東西無双編の狛彦は(元)陸奥ながら主役として本編の戦闘として描写された。

 今回も、庚の先代である桃が主役として戦闘と話の両方に決着をつけた。

 個人的には不満が2つある。自分は、この手の〈漢(おとこ)〉を描く作品において、見せ場は〈顔が見えない後ろ姿〉を求めている。自分は、男の漫画家と女の漫画家の本質的な違いの1つは、顔で表現するかしないか、だと認識している。所謂〈背中で語る〉という文化は古い男の価値観であり、女の漫画家が恋愛ではなく戦闘中心の作品で少年漫画に参加する事が一般的になった今、絵柄や作風よりも、女の漫画家に決定的に欠けている要素が、表情を見せない本性の描写、にあると自分は認識しているので、川原正敏のような古い漫画家にはそこを守って欲しかった。
修羅の刻/川原正敏/源義経/陸奥鬼一
 もう1点は、最後のコマがナレーションで終わる。自分は、3巻や4巻の、当事者として含みがある終わり方が好き。ナレーションは説明的に過ぎる。ある時期から、作中でも由来や事情をナレーションで解説や紹介をするようになり、正直な所、自分はこの様式には否定的である。川原正敏の変化なのか、編集者の意向なのかわからないが、ある時期からの川原正敏は説明過剰になり持ち味が薄くなった。

修羅の門川原正敏/4部/背中で語る

 いつもの〈あとがき〉では、次に何を描くのか明言がされなかった。修羅の刻なのか、海皇紀のような別作品なのか。内容の随分と〈老い〉に関してが増えて、作品の主題もまた次世代への継承の要素が強くなってきた。1980年代から現役で活躍する漫画家の1人として、自身のこれまでの意味と価値と最後を見ている。

 個人的には〈鬼滅の刃〉並の手間をかけて〈海皇紀〉をアニメにしてほしいと願っている。中盤以降のキャラの精神年齢が下がってしまったのが玉に瑕ではあるが、登場人物の年齢層が高く、チャンバラだけじゃなく帆船を中心とした活劇は正しく〈青い海〉市場をついた作品。

 自分が今でも買っている漫画は〈片田舎のおっさん剣聖になる〉を除外すれば、川原正敏あだち充岩明均武富健治……と老いた漫画家ばかり。1時代を築きながら現在の主流とはかけ離れた芸風で、現在の作品には欠けている毒や汚泥を描写する人達。

 川原正敏が、あと何作の漫画を描けるのか不明だが、初代の陸奥を描くのか、全く別の新作を描くのか。