誰かに憧れて、その人を目標にする人生は素晴らしい。それは、物語の基本であり、神話とは、民族の規範を示すものであった。あのような人間になろう、という。しかし〈推し活〉は違う。対象に費やした金銭で決まるのが〈推し活〉であり、価値観の主体は自分ではない。
自分にも、以下の人物から強く影響を受けて、今でも著作を買う頻度が高い。
- 【音楽】菅野よう子/ジェイコブ・コリアー/ミシェル・ルグラン
- 【小説】京極夏彦/森博嗣/テッド・チャン
- 【映画】クリストファー・ノーラン
- 【漫画】川原正敏/あだち充/藤田和日郎/岩明均
- 【社会】オードリー・タン/今井むつみ/新井紀子
しかし、それらは彼らの全肯定を意味しない。彼らの作品や商品や主張が自分にとって良い事もあれば悪い事もある。全肯定も全否定もない。肝心なのは主体的に取捨選択をする事。
〈推し活〉にそれはない。
例えば、菅野よう子の音楽から、ポップス調でも対位法がガンガン使って良い。京極夏彦の小説から、文章における文字とは意味だけではなく面の中にある座標や文字の形を含めた情報である。クリストファー・ノーランの映画から、デジタル技術は最終工程で使う微調整の道具に過ぎず、アナログの手段と道具で構築する事が作品の長期的評価に繋がる。
…などなど、自分は彼らの作品や主張から、彼らの能力の断片を学んで【1/n】で良いから彼らが実現した事と同じ事を出来るようになれれば、と教科書にしている。その結果として彼らに代償を支払う事はあっても、彼らの何かを利用する権利を買っているのであって【推し】ではない。彼らの原動力は才能と情熱であり、消費者は便乗しているに過ぎない。自分の存在が無くとも彼らは社会的成功を掴んでいるし、自分は彼らの原動力じゃない。
自分は彼らのファンであっても、彼らは自分の【推し】ではない。そもそも【推し】なんて言葉が傲慢である。出来る事が無い自分が誰かのためになっていると思い込みたいためのレトリックであり、代替可能な自分の存在を有益だと思い込みたい浅ましさから来る哀れな自己陶酔に過ぎない。
しかし、資本主義経済は【推し活】を歓迎する。当然だ。判断能力がなく無根拠に無制限に金銭を使う消費者は企業からすると【鴨葱】なのだから。
金銭を使う事に生き甲斐を見出すと碌な人生にならない。自分の出来る事を増やすために貢献してくれた人物に感謝として金銭を支払う、という取引に過ぎず、自分が幾らか金を使った所で自分の足が速くなるわけでも、記憶力が良くなるわけでもない。
10代の行動は20代の血肉になる。20代の行動は30代の血肉になる。そして、30代までに実行して来なかった分野の能力は40代から著しく衰える。つまり、何を好きか、誰を好きか、何をするか、は衰え始める40代の地力を支える土台である。それを【推し活】なんて消費に時間と金を費やすなんて愚か。
毎日、毎週、毎月、毎年、対象に金を支払う事に酔うよりも、1度で良いから対象から影響を受けた事を根拠に勉強や練習をして、10年後の今の自分がこれを出来るのはあの人のお陰、という人生の方が余程自分にとっても対象にとっても推進力と言えるのではなかろうか。
【推し活】は資本主義の梅毒。寝る相手は少なく、寝る頻度も少なく、しかし、自分と対象との間に愛する子供を持つ、という方が余程健全であろう。