以下を読んで、これを一般化するには無理はあるが、大筋では全く同意する。
よく「じゃあ子供にはどう教えればいいの?」と聞かれます。実はこれがそもそもの誤りです。抽象芸術という分野がある。しかし、そもそも絵画や音楽は最初から抽象的な芸術である。写真のように緻密で再現的な具体は美術であって芸術じゃない。芸術とは良くも悪くも極めて曖昧で主観的なものである。
これは僕自身の強烈な体験に基づいています。
3歳の頃、保育園のお絵描きの時間でのことです。
僕はクレヨンで好きな色をぐりぐりと画用紙に塗るのがただただ楽しくて、無心で遊んでいました。
ところが、先生のところに絵を持って並んでいると、前の子供たちが次々と「これは何?」と聞かれ、「キリン」とか「ゾウ」と答えて、先生がそれを書き込んでいるのを見てしまいました。
その時、僕は凍り付きました
「えっ、何かを描かなきゃいけなかったの!?」と。
順番が近づくにつれて心臓がバクバクして、焦った僕は、自分の番が来た時、とっさに自分の絵を見ながら「……クジラ」と嘘をつきました。
その瞬間、僕の中で「絵というのは、何か(説明できるもの)を描かなきゃいけないんだ」という呪いにかかってしまいました。
あのアクションが、本来自由だった色彩や感覚を一瞬で「大人の常識」の枠に閉じ込めてしまったと思います。
子供は放っておけば、大人には見えない色や形を自由に見つけます。
そこに「これは何?」とか「ここは青で描いたら?」という大人の物差しを持ち込むと、子供は賢いので「あ、大人が喜ぶ正解を出さなきゃ」と察して、急速に「自分の感覚」を捨ててしまうんです。
だから、子供が何を描いていても、ただ「この色の混ざり方、きれいだね!」「見てると元気が出るね!」と、その行為や感覚そのものを全肯定してあげてください。
「教えない」ことこそが、美術教育だと確信しています。
https://x.com/hiromaya_art/status/2021894293758136384
自分は、芸術は過大評価と過小評価がされていて、どちらも愚かだと思う。芸術とは、作品を見たり聞いたりして感動するものではない。作者が何かAに触発されてBを作るように、今度は鑑賞者がBに触発されてCを想像する事である。
自分はポップスをあまり聞かない。その理由は複数あるが、理由の1つに歌詞が存在して説明的だから。ポップスの消費者は、歌詞の内容で曲の主題を判断する。愛してる、と歌われたら愛の歌。殺してやる、と歌われたら憎しみの歌。
その歌詞や歌が無かった場合に、その曲の伴奏だけそう聞いて自分がこの音楽は何を言わんとる音楽なのか全く想像しない。何なら、声以外の楽器の音を歌手の声ほどの高精度で聞こうという気すら無い。
娯楽と芸術は優劣の関係ではない。娯楽とは、消費者を楽しませるのが目的。芸術とは、見えてる対象を素材に見えない何かを描き、聞こえている対象を素材に聞こえない何かを創造する行為である。
芸術が娯楽に勝る、という価値観は無意味である。目的地に早く到着するのが目的なら電車や自動車を使い、ゆっくり風景を楽しみながら健康のために歩きたければ徒歩を選択すれば良いだけで、これらは目的によって採用する選択肢に過ぎず、優劣ではない。
問題は、現代は学歴社会なので、学歴社会は言語依存の正解を求める価値観であり、だから抽象的で曖昧な事は避けられる。
しかし、人間とは本来、共通認識を持ちながら異なる反応を示すものである。ある人物には綺麗な色(音)でも、ある人物には退屈な色(音)である。肝心なのは、自分の主観的な価値観を基準にしながら、自分は感じず発想しなかった他人の何かを自分の選択肢として吸収して応用する事である。
だが、娯楽に慣れきった消費者は、反応はするが想像しない。見えている何か、聞こえている何かに反応するだけで、見えない何か、聞こえていない何かを想像しない。
例えば、以下の音楽を聞いてどう感じるだろうか。この音楽は最大で5声(5和音)の音楽だが、5つの楽器が順番に段階的に聞こえてくる。
特に、最初に聞こえる音は、1周10秒の中で、音階もリズムも全く変化しない長音であり、人によっては音ではあっても音楽ではないだろう。
しかし、2周目で2つ目の楽器が加わると、和音となり、2つ目の楽器は1つ目と異なる動きをするので、途端に音楽らしくなる。
同じように、3つ目の楽器、4つ目も楽器、5つ目の楽器が周回するたびに増えていき、最終的に5声の音楽となる。
さて、ここで質問である。最初の1つ目の楽器が10秒間まったく変化しない音を発音していた時に、これを聞いているあなたは2つ目以降の楽器のように、1つ目の楽器が発音していない音を想像しながら聞いていただろうか。恐らく、9割の人間が想像せずに聞こえてくる無変化の退屈な音として認識したのではなかろうか*1。
よく、これは芸術だ、芸術じゃない、という不毛な論争を見かけるが、自分が提示している定義で説明するならば、作品を見て(聞いて)、見えない(聞こえない)何かを想像が出来る人には芸術であり、作品の見える(聞こえる)具体的な何かに反応するだけの人には芸術ではない。
今度は画像で例示してみよう。
1枚目は女が笑顔で立っている。背景は無い。2枚目は、全く同じ女の画像に綺麗な背景が加わっている。


1枚目を見て、2枚目のような、あるいは異なっても良いから1枚目に存在しない何かを想像すれば(作れば)芸術である。
映画を早送りで観る人たちでは1100人を対象とした統計で、20代の半数以上が動画を倍速で見る事が示されている。台詞が無い場面はスキップするというインタビュウすらある。
こういう消費者は言語依存の説明に反応しているだけで想像をしていないから娯楽である。しかし、台詞の場面から登場人物の本音を想像したり、なぜ台詞も音楽も無い場面があるのか想像したり、感動した場面を作品には存在しない構図や状況で絵を描いたり、聞こえてくる音楽の編曲を変更して演奏すれば芸術である。
作品の巧緻は関係は無い。見えない何か、聞こえない何かを想像するのが芸術である。芸術が難解だというのも過大評価であり過小評価であり愚かである。それは、具体的な正解が1つあって、それを思いつかなかったから下す評価であり、的外れ。
三宅香帆は岡田斗司夫の番組で、以下のように主張している。
- 【考察】作者が明示した情報から正解を考える。
- 【批評】作者が想定していない様々な要素を持ち出して考える。
そして、Z世代は考察ばかり求めて批評を許容しない、というのが彼女らの主張である。
自分は、この定義に従えば、Z世代に限らない多数派が考察を好み批評を好まないのではないかと判断する。
例えば、自分が好きな映画に〈神々のたそがれ〉という作品がある。地味なSF映画なのだが、本作の主役はやたらと自分より下層な立場の人間の鼻を強く摘む。
自分は見ていた時に意味がさっぱりわからなかったが、後年、古代ギリシャの彫刻展を見た時に思い至った。彫像は長年の風雨に晒されて、腕がもげていたりするのだが、多くの彫像の鼻がへし折れていた。それを見て、なるほど上層の主役にはこれから起こる滅びを予期できていたが、それを出来ない下層は現在の刹那的な利益しか見えず、いずれ彫像の鼻はもげて不完全なまま2度と元に戻らない事を示していたのか。
これは、監督など関係者は何も明言していないので、あくまで自分の解釈である。映画の中では何も明示されず、映画とは無関係な古代ギリシャの彫像と結びつけて考えた自分の批評である。そして、これが娯楽と芸術の違いでもあり、作品で明示されている見える情報と聞こえる情報に固執せずに、無関係な別の事と関係させるから、自分にってこの映画も古代ギリシャ彫刻も芸術である。
考察と批評、娯楽と芸術。実際のところ、これらの区別や定義はどうでもいい。肝心なのは、何かを見て(聞いて)反応するだけで終わらず、見てる(聞いてる)対象に、見えない(聞こえない)何かを重ねて等しく扱えるか、その想像力を持って作品と向き合っているのか、という事である。
消費者が反応で終わらず想像も出来るようになれば、芸術は過大評価も過小評価もされず、ただ瞬きや呼吸くらい自然な事として受け入れられる。しかし、今のところはそうなっていない。
*1:数字の根拠は楽器演奏を出来る日本人口が10%だから。