変化するオタクの定義


 今のオタクの定義とは何だろうか。

 自分の場合は、採算度外視の自己満足の趣味として金と時間を費やし特定の娯楽に詳しくなる性質や人物、と解釈している。しかし、いつしか漫画やアニメの美男美女が好きな消費者と変化して、以下では漫画やアニメを消費するだけでオタクと言われる。そこに、自身が何を知り何を出来るようになるか、という指向は存在しない。

 自分は、カウボーイビバップというアニメが好きだが、次回予告の会話を暗記していたり、次回予告で採用されてる音楽はピアノ伴奏なのに、サントラに収録されているのはサックスが伴奏である、といった作品の細かい事を気づいたり調べたりする。

 だから、当時はオタク扱いされていたし、自分もオタクを自認していた。

 例えば、音楽でも、ある歌手の音楽を聞いても、自分はメロとか声質や歌詞よりも、1番サビと2番サビと大サビで毎回動きが違うストリングスの伴奏に感動する。坂本真綾が歌手デビュウした1996年から彼女を知り今でもファンだが、新曲の時計はサビのストリングスが毎回コピペで同じ動きだったのに失望した。1996年のデビュウ曲〈約束はいらない〉は1番サビ、2番サビ、2周する大サビ、全てストリングスの動きが違う。

 しかし、同じ坂本真綾のファンとこういう話をしても理解されない。彼らは、坂本真綾の作曲、坂本真綾の作詞、坂本真綾の歌が聞ければ感動が出来て満足する。坂本真綾を好きでも編曲と伴奏が気に食わない、という価値基準を持ち合わせていない。

 これは優劣ではないが、断絶ではある。自分のこういう性質がオタクと言われる所以だったが、今ではこういう知識は不要で特定の分野を消費しているだけでオタクと呼称されたり自称する。

 今だと、推しとか推し活がオタクの基本概念になっているが、推しや推し活は消費行動であって知識や能力を問わない。欲しい商品を選択が出来ないランダムのガチャに疑問を抱かず買い続けたり、好きな作品の元ネタとなった何かを自分で読んだり聞いたりするでもなく作品単体を消費するだけ。

 誰が何を消費しようが自由だが、それは消費者という言葉で100%説明が出来る。わざわざ性質を含むオタクという言葉を使う必要がない。

 岡田斗司夫や映画を早送りで観る人たちが指摘しているのは、無個性な人間が手軽に個性を獲得が出来るのが好きなアニメや漫画や芸能人を持つ事。好きな漫画を模写して何が凄いか理解しようとか、好きな音楽を耳コピして自分の知識にしようとは思わない。ただ消費するだけで獲得が出来る個性。それが現在の推し活であり、オタクの定義。

 自分は、漫画やアニメやゲームを好きで、それらの知識はそれなりに持っており、程度によるが解説や考察も出来る。しかし、恋愛対象と海に行ったりアイススケートに行ったり遊園地に行ったり温泉旅行をしたり、決して漫画やアニメやゲームが生き甲斐の全てという人生じゃなかった。

 鉄拳というゲームで遊ぶ時も、リプレイ機能を駆使してキャラの技の動きを見ながら友達と関節技の掛け合いをして遊んだり、友達が遊んでるバイオハザードを見て落ちてくる巨大蜘蛛にギャアギャア騒いだり、ビバリーヒルズ高校白書というアメリカのドラマを好きな女の子に自分が編曲したテーマ曲のカセットをプレゼントしたり、恋愛対象がキャプテンフラッグという旗揚げゲームを得意としていたので彼女の気を引くために対戦を申し込んだら完封されてジュースを奢ったり、これらの娯楽は、友情や恋愛と結びついた思い出となっている。

 その意味においては、自分は最初からオタクではなかったのかも知れない。たまたま漫画やアニメやゲームが盛り上がる時代に子供だっただけで、むしろ根本的な価値観は古典的だったのかも知れない。

 ただ、今の自分は知識などを不要とする雑談を全く出来ない。時間の無駄だと評価している。何を好き、と言われても苛々する。何を好きで、それを目標にして今こうしてるんだけど中々うまくいかず苦労している、みたいな話なら大歓迎。そこには目標と行動がある人生だからだ。しかし、胸が大きいからこの女を好きとか、金持ちのイケメンだから好き程度の価値観で好き嫌いだけを語られても、それを自分の人生にどう反映させるのかという思考が無い。そういう意味で自分はオタク的と言える。

 いずれにせよ、もはやオタクという言葉に意味は無い。それは、人類の中の日本人程度の意味しかなく、そこから類推は出来ても特定は出来ない。