藤井聡太は将棋の歴史を塗り替えたが、今は女流が塗り替える可能性があり女性初の棋士に自分も期待している。そして、妊娠と出産に配慮を求めるのもわかる。しかし、将棋よりも優先する事があるから、その基準に将棋が合わせろ、は違うのでは。奨励会だって人生のあらゆる事を捨ててプロになるわけだし。今年は将棋を頑張り、結果に合わせて子供を持つか持たないか、と長期の判断が出来ない人間が棋士になれるほど甘い世界なのだろうか。
自分は、正座はやめて机と椅子でやれよ、と思うし、妊娠への配慮も必要だと思うが、大怪我をしたり、子育てを優先するから将棋を休む、あるいは棄権と判定されるのは何も間違っていないだろう。確かに、男は子供を持ちながら将棋が出来る非対称な関係で、それ基準にしたら不満もあるだろう。ただ、問題なのは、将棋を基準にして何かを捨てなければならない覚悟が無い事では。仮に棋士になれたとしても将棋を最優先には生きられないとわかっている存在が業界にとって良い存在だろうか。将棋に限らず、妊娠(出産)という別の最優先が出来た時点で、他の1部分は諦めなければならないのは当然では。男が子供を持つセックスの時間を確保するために将棋の業界が予定に配慮してくれ、なんて言えないだろう。同様に、女の妊娠(出産)は個人的な事なのだから、子供を持つ自由は尊重されて当然だが、それは将棋業界には副次的な事だ。
そして、仮に妊娠と出産に配慮した予定でも、棋士の実力を維持が出来るのか? 棋士になる条件が厳しいのは、個人的な事情なんぞ知った事ではないから実力を示せ、という世界だからだろう。実力と需要があるなら運営も消費者も配慮するだろう。しかし、実力も需要も無い内から配慮せよ、はいかにも女というか、とにかく私は悪くない精神丸出し。妊娠(出産)は何も悪くない。当事者間で求めた結果なら文句なくおめでたい。しかし、将棋は会社勤めでも娯楽芸術でもなくどんな境遇だろうと示した実力だけが評価基準の勝負の世界なのだから、男とか女とかの事情を持ち出す時点で、勝負に人生をかけてないだけでは。仮に妊娠(出産)に配慮するなら、月経にも配慮しなければおかしいし、不本意な体調不良なら男にも起こるから、それなら性別不問で全員の予定に配慮せねばならなくなる。
女に生まれたというだけで勝負に不利なのはまことに不幸ではある。しかし、妊娠や月経が女同士なら平等だから調整が出来るだろうが、棋士になった時に、では男のほうは認められない不都合があるのに女は良いのか、という話になりかねないのでは。少なくとも将棋に合わせて意図的に妊娠しない、という選択が可能だったのを、将棋よりも子供を選んだ人生で、子供を持とうと持つまいと関係ない将棋側に配慮せよ、は筋が違うのでは。
