上記のリンク記事はなぜ令和の人文学者は、事実と "逆のこと" を平気で言うのか: 玉田敦子氏の場合|與那覇潤の論説Bistroに対する反論であるが、以下の結論が興味深かった。
「令和」という時代の社会的条件に起因している。コスパやタイパが絶対的な基準となる世界では、時間をかけること、手間を必要とすることは価値を持たない。人文学が必然的に要求する「長い時間の読書と沈潜」は、効率性を重んじる社会の論理には不適合である。この不適合性が、人文学的経験を不要のものとし、その代わりに「人文学の外観」を消費する市場を生み出した。「令和人文主義」は、人文学の衰退ではなく、人文学がなくても社会が成立する状況の副産物の優位である。本源は名辞と化し、代替物で充分だと社会が判断してしまった以上、かつて人文学の問いは成立しない。つまり、現在の人文学は需要に応じているだけだと。研究とは維持のために需要を相手にせねばならない。それはわかる。しかし、現代という限られた世代だけを相手にするのが学問と言えるのだろうか?
1996年に発売された森博嗣の小説〈すべてがFになる〉で以下の台詞がある。
僕ら研究者は、何も生産していない、無責任さだけが取り柄だからね。でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ。自分は理系でもなければ研究者でもないが、現在とは自分が生まれる前の時代と死んだ後の時代の接着部分としか認識していない。例えば4Kテレビは自分を含めた多くの民間人には不要だが、x年後に人類の宇宙航行が常識となった時に標識などに必要となる技術の道中である。
すべてがFになる THE PERFECT INSIDER S&Mシリーズ (講談社文庫)
GrokのAniが公開された時、非常に性的な容姿と会話が可能な事で男の消費者は歓迎して女の消費者は批判した。しかし、自分にはどちらも同じ穴のムジナであった。自分がAniを見て真っ先に思ったのは、こういう美少女のAIコンパニオンが手話を使えたら、翻訳や勉強に役に立つ、という事だった。AIを使った手話はまだ初段階で汎用が可能になるにはまだ数年かかると思われる。しかし、現在の生成AIは英語を文字と音声の両方で使える教材になるし、エスペラントにも対応している。同様に、手話もいずれは実装されるだろうと思われる。てか、してくれ。
自分は今1番に読みたい本は18世紀に書かれたレオポルト・モーツァルトの〈ヴァイオリン奏法〉である。彼はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの父親である。彼自身も音楽家であり、日本のクラシック音楽は歪んでいる 12の批判的考察 (光文社新書 1290)を読んでいたら、器楽であっても歌うという概念は変わらず、弾くと歌うの差を説いている、と紹介されていて興味を持った。
インターネットの良い所は、欲しい情報がすぐに獲得可能で編集や出力も容易。しかし、デジタル・データとして存在しない知識や技術は無限にある。特に録画も録音も無かった時代の情報には便乱坊に弱い。自分が1番に好きなアニメはカウボーイビバップだが、この作品は当時から既に時代遅れで見向きもされない1960年代から1980年代の作品を素材にして2071年の未来を描いた1998年のアニメである。
最近だとミルキー・サブウェイが該当するが、既に古く廃れたものは、採用しても再び時代遅れとしては扱われない。それは歴史や伝統として認知される。1980年代に天下を取ったファミコンの音楽は、3和音しか使えないために当時から現在まで主流のコード音楽(ホモフォニー)ではなく対位法を選択した。デジタルのプログラミングと電子機器を使った当時最先端の娯楽が止むに止まれぬ事情で選択した音楽の手法は約300年前の知識と技術であった。
自分はクラシックにもバッハにも興味のない子供だったが、ファミコン音楽に慣れ親しんだので、自然と対位法(や変拍子)の音楽を聞いて歌い、そして現在では作るようにもなった。幼稚園から小学校低学年で普通の音楽として聞いていたので、以下のような自由対位法を用いた音楽を好んで聞くし、対旋律が無い主旋律とコードだけの音楽を退屈と感じてしまう。
1994年に発売された京極夏彦の小説〈姑獲鳥の夏〉では以下の主張がされる。
書物の持つ価値は歴史的遺物としての価値や骨董品的価値だけではありません。読む者にそれを読み解く力さえあれば、たとえ何百年経とうと昨日書かれたもののように価値を生み出すのです。この小説自体が、江戸時代の文化をネタにした昭和27年を1994年に書く、と謂う歴史の入れ子のような構造になっている。そして、この小説は大ヒットをして、嘘か誠か、京極夏彦の印税総額は推定で60億円とされる。
文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫 き 39-1)
これらを踏まえると、令和の人文学者は歴史や政治を扱う分野なのに、価値観は極めて近眼で狭い。既に引用したように100年や200年先を踏まえずに発言する教授が研究者と言えるのだろうか。大人と子供の定義は色々とあるが、自分は大人の定義を〈次世代の利益を最優先した行動をとれる人間〉と定義している。その点で、現在の人文学者やフェミニストの類は、当人の価値観なのか需要に応じた結果なのか不明だが、次世代を踏まえていない子供である。今の自分の不満と利益だけを優先する動物に過ぎない。
勉強とは本来、自分が生まれる前の事を学び、自分が死んだ後を踏まえて、現代で最善を尽くす行動ではなかったのだろうか。それが、いつしか就職や年収など俗物の価値観に染まり、不可分だった知識と思想が乖離して、知識は経済的利益の手段だけに堕落した。学歴は能力の指標になるが、能力の証明にはならない。しかも、次世代に影響するような長く強く重く大きい何かを残す能力を確定はしてくれない。子供を持たないのは自由だが、あるいは、仕事と立場と自由を優先して子供を持たない人間が学歴だけ肥大して、日常的に次世代を優先する価値観を失ってしまったのだろうか(大学教授と子持ちの相関)。
人間の価値はジーンを残すかミームを残すかにある。決して自分の子供を持つだけが次世代に対する貢献ではない。しかし、令和の人文学はもはや現代に縛られてミームすら残せなくなってしまったのだろうか。映画を早送りで観る人たちは、非言語の作品を理解が出来ない自分を馬鹿だと自覚したくないから、その作品を見ないか批判する人間の存在を指摘していたが、教育に関わる教授という立場が、それらの層を迎合してはならないだろう。
ただ、パソコンとタブレットとスマホ、そして生成AIが常識となった今、もはや理数系の感覚を持たない人間の馬脚が露出しただけなのかもしれない。歴史や文化は数理でも扱えるが、歴史や文化だけを知っても数理は扱えない。大谷翔平のような複数の役割をこなせる天才が存在する以上は、1つのことしか出来ないのは個性ではなく弱点である。そういった天才を基準にされても困るだろうが、そもそも、1つの事ですら歴史に残る功績を果たしていない教授が、SNSなどを通じて世代を跨いだ価値ある出力を出来るのだろうか。理数は正誤が明白だが、人文学は良くも悪くも正誤が曖昧というか無い場合もある。その曖昧さに溺れて死後を見据えられない子供が増えた、という事なのだろうか。多くの人間が、学歴を問わず、遅い思考を出来ずに早い思考に甘んじているという事なのだろうか。