河津秋敏「書き過ぎるくらいなら書かなさ過ぎる方が良い」

 サガフロ2リマスター発売に合わせた宣伝を兼ねた《河津秋敏》インタビュウ動画。今回は《ベニー松山》も出演。


 今回も河津秋敏の思想が語られているが、それが記事名。

 自分は、子供の頃はFFやDQが好きだった。しかし、歳を取るにつれサガの方が好きになり、今ではFFとDQには微塵も興味が無い。

 その理由は複数あるが、その内の1つは《感情》《本音》の表現が露骨で稚拙だから。

 自分は作品の登場人物の本音は消費者にわからなくて良いと思っている。例えば《子供を嫌いな医者》がいたとする。死にそうな子供が医者の前に現れた時に、医者は持てる知識と技術を駆使して子供を助ける。肝心なのは《好き嫌い》ではなく《助けるか助けないか》だけ。むしろ、嫌いなのに助けるからこそ信念や愛を感じる。言うなれば、自分の血を継ぐ子供よりも養子を育てている親の親の方が愛が深い的な。

 世の中には《共感》こそ至上とする価値観があるが、自分はこれを全く理解が出来ない。同じ事を好きである必要は無いし、何なら別の事を好きな集団の方が豊か。肝心なのは目的を同じにした時に協力し合えるか、自分が何を出来るか。であって共感なんぞ何の役にも立たない。立場は違うからこそ補完が出来るのであって、同じ遺伝子を持つ生物は1つのウィルスで死滅してしまう。

 最近だと《鬼滅の刃》が爆発的に売れたが、自分にはあれの良さが全く理解が出来なかった。何でもかんでも台詞で説明して泣く喚くのオンパレード。同情を誘うテンプレ過去話に感動的な羅列。何かを察するとか考える余地が無く、《ズートピア》みたいに頭が悪い人が読む商品だと思った。

 自分は《共感》こそ無能の思い上がりと差別だと認識している。言うなれば、同じ性別、同じ世代、同じ人種なら共感しやすいし、逆は排他。以前に《高校生で男が主人公だから社会人で女の自分には共感が出来ずにつまらなかった》と言う知人が居たが、自分は内心で彼女を愚か者と判断した。作者の思想と、登場人物の行動で何を獲得して何を損失したのか、こういう事を気にしない人があまりに多くて驚いている。

 共感それ自体が悪いのではなく、共感は行動の後押しにならないのであれば無意味だという事。子供が倒れて混乱している親を見た時に必要なのは、大変そうだという共感ではなくて親の代わりに冷静に通報など出来る判断力と行動力。行動を伴わない共感はむしろ害悪。《世代》《性別》《人種》を超越した《行動》こそ全て。

 河津秋敏が素晴らしく、そして売れない理由がここにある。河津秋敏も喜怒哀楽は描く。だが、大事なのはそこじゃないよね、という話。内心で何を考えて感じていようとも、誰かを助け続ければ英雄として讃えられるし、逆なら悪魔と謗られる。映画《バットマン ビギンズ》でこういう台詞がある。

It's not who I am underneath, but what I do That Difincs Me人の本性は何を思うかではなく、何をするかで決まる


 自分が河津秋敏と同様にクリストファー・ノーランに惹かれる理由は同根。人間には感情があるのが前提で、感情を発露するのが目的ではなく、行動の添え物に過ぎない。所謂やらない善より、やる偽善の精神。そして、自身の本音や感情を語らず背中で語るという価値観。


 ラスボスを倒した時に、通常戦闘だとある歓喜の舞は無く、静かに立ち去り、一度振り返るも何も言わず語らずに終わる姿。こういう塩梅が河津秋敏は素晴らしく信頼が出来る。

 共感を至上とするのは所詮《行動》しない人間が自己正当化と自己陶酔で何かした感覚が欲しいから宣言しているに過ぎない。努力は勉強を必要としない《推し活》が梅毒のように蔓延る理由も同じ。むしろ、自分と環境も指向も異なる人間の行動から何を学ぶか、という方が人生に必要な事なのでは?