コードに無知でも作曲が出来るサイトらしい。
少し見たら、コードは3和音ばっかで、4和音以上はドミナントのG7だけだった。
つまり、かなり極端に割り切って選択肢を減らす事で使いやすさを優先している。
こういう道具が作られて、こういう道具を使う、それ自体は何も悪い事じゃない。趣味なら手軽に音楽をどんな風に楽しもうと自由である。
その上で思うのは、やはり一般的に音楽とは和声であって多声は最初から除外されているのだな、という事。
歴史的には、1人がメロを歌って、もう1人がユニゾンして、飽きたらハモ、飽きたら別のメロ、という形で発展していき、それが多声音楽となり、その中で定番となった和音が和声になりコードになり現在に至るわけだが、今では誰も多声音楽に見向きもしない。
面白いのは、歴史的に単声から多声、多声から和声に発展していったのに、音楽初心者に向けた何かやポップスでは、多声だけがすっぽり抜け落ちて、単声と和声だけが世間に浸透している。
音楽消費者の多数派はメロしか評価していない。伴奏の音を感じながらも、曲の雰囲気はメロではなくコードが決めているにも関わらず、そのコードが具体的にどのように機能しているのか理解していないから「切ないメロ」と言ってしまう。
それ自体はしょうがない事ではあるが、歌手のメロを非常に重く評価している消費者ですら、何故か2声以上の多声音楽を全く聞かないというのが常識である。当方はこれが不思議でしょうがない。
誰がどんな音楽を好もうと自由だが、和声も多声も分からないからこそ、メロに過剰反応するなら、複数のメロだけで成立している多声音楽の消費者はもっと増えて良さそうなのに、和声音楽の天下が揺らぐ事はない不思議。
以下は、音楽理論の難易度とレア度を評価軸にしたティア表というネタである。
https://x.com/yuu09200920/status/2070477184062619999
これによると、コード(和声)の基本はBで、多声音楽の基本の2声対位法はAである。
だから、これに従えば、ここが分水嶺のようである。体感では9割がBで1割がAを出来るという印象。
当方はファミコン音楽で育ったので、3和音しか使えないしょぼい音源だからこそ3声対位法の音楽が普通に流れていたので、拍子もろくに理解していない幼少期から難易度A以上を無意識に学習していた。
だからポップスのような音楽を聞く場合も、キーボードとギターでコードとリズムを多重にするより、どちらかをヴァイオリンやアコーディオンやオーボエやホルンのような楽器にして、歌手の裏で対旋律をやってるような音楽を好んで聞いていた。
多声音楽が少数民族だと知ったのは10代半ばだろうか。先述のティア表でいうEである拍子など基本様式を体感ではなく知識として理解し初めていた時に友達付き合いでポップスを聞いたら、拍子は4拍子しかないし、メロは1本だけで絡み合いがない、実に単調で退屈な音楽だな、と興味がすぐに失せた。
面白いのは、多声を作れる層は和声も作れるが、和声を作れる層が多声を作れるとは限らない、という事。
現在の多声音楽は基本的に制約が多い厳格対位法ではなく、コードと絡めて選択肢を増やした自由対位法が主流で、つまり、自由対位法の中にはコードが含まれるが、コードの中に自由対位法は含まれない。
だから、長期的には対位法を使う多声音楽を最初から知っていた方が和声も難なく理解が出来る両対応なのだが、消費されるのは圧倒的に和声であり、素人向けの作成ソフトの類もコード(和声)ばかりである。
和声と多声は対立するよりも相互補完の関係なのだが、何故か多声だけは軽視され続けている。
今回のような、初心者でも3和音のコードだけを選択して作曲が出来るという道具自体は存在しても良いし使っても良いが、それだけで終わるなら、多声音楽を知らないまま和声音楽だけを消費し続けるサイクルは維持されるので、多声音楽は益々少数派になる事だろう。
多声音楽が避けられる理由は明確で、ティア表が示すように難易度が高いから。
例えば、和声を更に単純化したコードの場合、メロとコードという対比で把握がしやすい。
しかし、メロとコードは基本的に合計で4和音になるので、多声音楽の対位法は、ソプラノに対してアルトはこう、ソプラノに対してテナーはこう、ソプラノに対してバスはこう、アルトに対してテナーはこう、アルトに対してバスはこう、テナーに対してバスはこう……という各声部の対比を考え続けなければならないので、メロとコードよりも何倍も思考する対象が増える。
メロが2つだけの2声対位法ですら、伴奏を加えると考えなければならないのは3要素になるので、メロとコードの1.5倍の労力が必要となる。
とは言え、例えば秋元康48みたいな大人数すら、揃ってユニゾンかハモで1つのメロしか歌われないという現状に当方は辟易している。
当方は以下の4コマ漫画を読んで愕然とした。
https://x.com/niinoniio/status/2020108533350433242

和声音楽が市場の中心になると、こういう愚者が増えるのではないか。何故ならば、和声音楽とは主役のメロと脇役の伴奏という構図が一般的な認識だから。
それはある意味で間違ってないが、あまりに愚鈍な認識でもある。
例えば、アイドルの水着写真は、肌の露出が多い美少女を目的にしている消費者が買う。しかし、背景が全て白地だと貧相に見えて不満が上がるだろう。だから、金をかけて海外ロケで非日常な美しい背景で撮影される。
しかし、大衆は背景を無意識に感じても背景を詳細には把握しないので、白地には文句を言うが、背景があってもどこの国どこの場所かは気にせず女の顔や胸ばかりを見ている。
和声とは、そういう消費者の性質を増長させる。
多声音楽は、AとB、AとC、AとD、BとC、BとD、CとD……これらの関係性を均等に扱うのが前提なので、脇役が存在しない。今の自分はAに対してこういう事をしている、同時にBにはこうで、Cにはこうしている、という意識がないと出来ない。
しかし、和声は、メロという主役を引き立てる背景の伴奏という意識を生み出してしまう。
当方が去年(2025年)Spotifyで1番聞いた音楽は虹いろクマクマという曲である。
https://open.spotify.com/track/4GyKN2LoTyRXab8bYioyYp
この曲は表層だけで反応すると、可愛らしい声がメルヘンな歌詞を歌っているだけの軽薄な音楽である。
しかし、この曲の何が素晴らしいかと言えば、ポップス編成に加えてストリングス4声がいて、ヴァイオリン1stと2ndはほぼ同じ動きだとしても、ヴィオラとチェロはコードを構築するための全音符じゃなく、ヴァイオリンや歌手と絡み合う声部として書かれており、つまり、歌手・ヴァイオリン・ヴィオラ、チェロ……の4声対位法の多声音楽になっている。
歌メロとヴァイオリンは1番サビ、2番サビで同じ事を繰り返しているが、ヴィオラとチェロは毎回違う動きをしている。
特に内声を担当しているヴィオラが最高で、最初は3和音の1部をやってただけなのに、途中から7thをやったり、ヴァイオリンにハモったり、とにかく変化が激しく忙しい。それでいて、やたらと動いて主張するでもなく、2小節以上の長音までやっている。
そして、ヴァイオリンは1番と2番で動きが異なり、2番では歌手の輪唱が1番でヴァイオリンがやってた動きを踏襲して、1番のヴァイオリンは実は2番の伏線になっている。
しかし、上記の4コマ漫画の作者や、それに賛同する消費者は、こういう要素を聞いていないし聞き取れてないから理解が出来ず、ヴィオラとチェロ(テナーとバス)が和声に及ぼす多大な影響力を理解していないし、感知をしていないので、歌メロに合わせて歌ってと言っても聞き取れてないから歌えない。彼らにとって主旋律以外は訳の分からない変な音になってしまう。
誰でも自由に作曲が出来ます、という言葉に嘘はないが、素人向けのそういう道具が示すのがメロとコードに2分割された和声音楽だけというのは、当方は非常に危うい気もしている。
