作者の本性は恋愛とは別の所にある異種族ラブコメ〈ミズダコちゃんからは逃げられない〉

 自分は基本的に萌え作品は読まない。理由は明白で、娯楽作品に恋愛は不要だと思っているから。潔癖な萌え作品だと、男向け作品には男が存在せず、女向け作品には女が存在しないのもよくあり、登場人物が恋愛をしないだけで消費者が極端な異性消費をしているのには変わらないので、自分はそれが気持ち悪くてしょうがなく、恋愛作品からも萌えからも、そして漫画やアニメからも遠のいた。

 そんな自分が現在連載中で購入しているのは以下の4作品だけである。

 最後の〈片田舎〉だけ異なるが、基本的な共通点は、主役達の活躍は歴史の断片に過ぎない、という価値観で描かれている。つまり、これは作者の仕事も、作品を楽しんでいる消費者も歴史の断片に過ぎないというメタ認知を刺激する。

 その意味で〈片田舎〉だけは架空世界の架空人物の戦闘漫画だが、剣士という立場で、自分よりも強いかもしれない剣士、魔法使い、魔物、あるいは別の何か、と個人では捉えきれない世界を描こうと頑張っている、という意味では同じと言えるかもしれない。

 自分は運が良く海外旅行を2度だけ経験した。日本の常識は通じず、なんなら自分は英語を話せないので言葉も通じない世界で何を経験が出来るのか興味があって、それぞれ音楽のライヴやゲームのイベントなど明確な目的があったのは間違いないが、異文化交流を求めていたのも事実である。

 自分が洋画を好むのも、自分が知らない世界を垣間見て海外旅行気分を味わえるからで、ゲームが娯楽の主流じゃなくなって久しいが、それでも1日60分弱は遊ぶ時があるのも、基本的に海外旅行(異世界の冒険)を味わいたいからだ。SFを好きな理由も、人類の常識が通じない宇宙人を相手に人類は何を学ぶのか、という人類の常識を疑っている側面が強いから。

 さて、そんな自分が萌え漫画であるミズダコちゃんからは逃げられないを買い揃えた。

 この漫画は、蛸の触手が髪である美少女の恋愛を描いたラヴコメで、言ってしまえば軽薄な萌え漫画である。本来なら自分が嫌悪している対象なのだが、本作は萌えが中心でありながら、萌えとは違う作者の趣味が出ているのが面白い。

 どうもクトゥルフ神話を素材にしている節があり、ヒロインである水田夕子が恋愛対象の男に言いよる場面が明らかに萌え漫画ではないホラーの文法で描かれている。

 他にも、彼女は髪以外は人間の姿であるにも関わらず人間と同じ食事を出来ない。既存の植物や生物を特殊能力で独眼の小さな怪物に変形させて、それを食べる。

 この漫画が偉いのは、それを単なる可愛らしい萌えで消化せず、不気味な存在だという現実的な常識で描いている点。

 実際に、人間が見たら不気味がるだろうからと、水田夕子は1人で人目につかない場所に隠れて弁当を食べている。あくまで主役の男がそれらを気にしない逸脱者に過ぎず、世界の常識とは異なるという対比で描いている。

 単なる恋愛であわあわしている萌え漫画と異なり、非常に攻撃的で不気味な眼をちょいちょい挟んでくる。

 この眼の描き方なんかヘルシングと同じ演出であり、表情は影で見えず眼だけが浮き上がっている。

 作者である眼亀の過去作を確認したら、確かに幼い美少女を描いているのだが、どうも彼の興味は怪獣とか怪物に向いているようで、小さな人間との対比の神話的な巨大生物の絵が多かった。

 恐らく処世術として萌え美少女を描いているのであり、本来の欲望の対象は別の所にあるようだ。それこそ片田舎のおっさん剣聖になるも、女の登場人物が全員美少女で理不尽に主役の男に惚れてくる実に軽薄なハーレム漫画の体裁でありながら、実は強姦される不幸や美少女だろうと容赦なく首を切断される描写など、絵柄と乗りに反して主題は古典的な厳しい世界での戦闘である。

 だから自分のような人間でも楽しく読めるし、恐らく[asin:B0D2NQSXMJ:ミズダコちゃんからは逃げられない]も作者の趣味と需要の乖離をうまく折り合わせて、萌えが前面に出ながらも本性が違う所にあるのが面白くて読めているのかも知れない。

 芳文社の漫画なので基本的にはほんわかな萌え漫画に過ぎない。しかし、自分が芳文社で真っ先に想起する漫画らいかデイズは、基本的に大人びた小学生の恋愛と友情だけを描いている平和な作品なのに、実は学校の教師が両親不在で施設に引き取られて育った過去があったり、割と人生の理不尽な悲しみも真面目に取り扱った人情作品である。
 その意味で、芳文社は意外と侮れない。[asin:B0D2NQSXMJ:ミズダコちゃんからは逃げられない]が両思いでハッピーエンドになるのは自明だが、その過程で、クトゥルフ神話、あるいはクラーケンと言及されている要素で水田夕子が如何に人間と馴染めない価値観と生理を持ち、恋愛対象の男を人間が理解できない形で愛するのか。そして、それを相手の男がどう受け入れるのか。恋愛とは異なる異種族の作品として読みやすい。

 半人前の恋人という恋愛漫画がある。これは高校生同士の普通の人間の青春恋愛漫画である。ただ、この作品が他の恋愛漫画と一線を画しているのは、男は絵描きを目指して、女は和太鼓の職人を目指している。恋愛漫画ではあるが、実は恋愛が価値観の最上位に無い。

 ヒロインは和太鼓職人を目指している。なので手荒れが凄まじい。少なくとも太鼓職人の仲間内では、その荒れた手が意味する事を理解してるから褒められる事はあっても貶される事はない。しかし、同世代の女が手が綺麗だの肌が綺麗だの他愛ない話をしてるのを目の当たりにすると、自分の手はあまりにも年頃の女とはかけ離れた汚い手である。

 その手を恋愛対象の男に見られるのが嫌で、男から優しく手を差し伸べられても、すでに両思いが明白な関係であるにも関わらず、彼女は男の手を突っぱねてしまう。

 その後、男は女が何を気にしているのか気づいて、自分が絵描きを目指しているからこそ、彼もまた手荒れの価値がわかるので、彼女の手はこれまで積み重ねた、これからも積み重ねていく立派な手だと彼女の手を褒め、彼女はそれを聞いて救われて号泣する。

 自分が感動して、逆の序盤でこれをやってしまったがためにもう事実上の最終回で続きを読む必要が無いと判断した話である。

 恋愛漫画ではあるが、2人は付き合っても互いに絵を描くのをやめないし和太鼓を作るのもやめない。むしろ、2人は別れてもそれぞれこれらを継続するだろう。その前提で、恋愛と無関係な人生を賭けた要素が恋愛の邪魔後なり得るのに、それを恋愛相手が理解して認めてくれた。恋愛漫画でありながら恋愛よりも上位の価値観があり、それを恋愛が救うという形になっている非常に誠実な恋愛漫画である。

 自分が恋愛作品を嫌いなのは、恋愛以外の要素が明らかに軽視されるからである。例えば勉強が出来るという設定があっても、勉強の内容は詳細に明示されない。あくまでテストで良い点を取ったというだけで終わる。失敗して落ち込むか、成功して喜ぶか、恋愛作品はその感情の起伏にしか興味がなく、恋愛以外の努力や苦労が恋愛よりも劣る価値観で軽視される。

 その意味において、半人前の恋人もそうだが、[asin:B0D2NQSXMJ:ミズダコちゃんからは逃げられない]も基本的にはしょうもないほんわか恋愛を描いているに過ぎないのに、作品や作者の本性は別の所にあるのが垣間見えて面白い。