2025-06 文系学問はお気持ち、理系は客観的で正しい - posfie
自分は純粋な理系ではないが、数学にはよくお世話になっている。
写真を撮るのに被写界深度を知るには三角関数が必要だし、明日の売り上げなど数字の変動を類推するには積分が必要だし、そもそも今回の件だと、文系は理系の真部分集合という話だし。
例えば、小説家の京極夏彦は、理系の森博嗣との対比で文系のほにゃららと評価されていた時期があるが、京極夏彦は作中の中でしっかりと科学や数学の意義を認めて、そういった客観的事実に感情を持ち出すのが愚かだと評している。その上で、人間の脳1つ解明できていない以上は科学にも限界がある、そして暫定的な対策に有効なのが文系の知恵という作品を書いている。
理系の森博嗣は、理系なのにミステリィ小説を書いて大ヒットして一生使いきれない収入を得た。じゃあ、小説家になりたい人が数学などを学ばずに森博嗣のような理系的な知識を駆使したトリックやネタを提供が出来るのか? それは無理。理系に小説を書けても、文系は数学が出来ない。
例えば、文系の得意な音楽だって、現在世界を席巻しているドレミ音階はピタゴラス音律という理系の知識にもたらされたもの。映画のCGI、何万年前の物質の判定、電子書籍や電子ペーパー、ビデオゲーム、これらは理系によってもたらされた物だ。
楽譜を読める人は楽譜が無くても耳コピも出来るが、楽譜を読めない人は耳コピを出来ても楽譜を読めない。つまり真部分集合。一般的には上位互換と言う。
コメントでも突っ込まれているが、数学を出来ない人間は文系ではなく数学に対して無能なだけ。自分自身は純粋な理系ではないが、定義もせずに思い込みで話して数学的な概念も無理解で、森博嗣の言う、事実なのか意見なのか願望なのかを区別が出来てない自称文系が多すぎるののは、純粋な理系じゃない自分ですら辟易する。

